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「からだの作業場通信」

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股関節・脚引っ張りワーク

先の記事のつづきのようですが、「股関節(というか脚、かな?)引っ張りワーク」の感覚のことを。

片足を持って引っ張る先の「支点」・「ねらい」をいくつか変えてみます。「股関節」に行く前にまず「膝」をねらってみると(受け手の意識も膝に向けてもらうようにしてもらって)膝がspaceとしてひろげられていく感じがします。膝は知らずかなり詰めてしまっているパートだと思うので、じっくり(引っ張る側の)体重を使いながら均等な力で引かれてspaceが拡がる感じを受けると「知ってるようで知らなかった感覚」かもしれません。(ひょっとしたら膝の前に足首からだっていけるかもしれませんね)。そして引っ張っている方の脚の股関節を狙って。これがいちばんオーソドックスというかベーシックなんだろうと思います。
次に、これはかなり「?!」だと思うのですが、もう片方の側の股関節を狙って引っ張ってみます。下腹部、骨盤の中が斜めに引きのばされて緩められるような感じになって「なにこれ?」って笑ってしまうような感じになりました。ストレッチ系の「伸ばされる」感覚と内側の感触の部分とが重なって感じられるような感覚のように思います。
さらに(笑)もうひとつ。今度は「股関節」というより、その脚側のお尻、座骨、骨盤まるごと引っ張るような感じで引っ張ります。これも、「受け手もその意識で受けてみる」という感じだといいかと思いますが、腰そのものがなにか放されるような変わった感覚になります。「膝経由股関節」、「逆股間接」、「股関節・骨盤セット」をひととおり左右やってみると、「腰が抜けてしまったような」感じになって感覚的には「あ、すぐには立てない(笑)」というような感じに近い感覚になる気がします。「立ち方を身体の回路が一瞬忘れてしまっているような」不思議な揺るみかた、力の抜け方の感じ。

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加藤幸子「長江」(新潮社)
    「池辺の棲家」(講談社)
    「ジーンとともに」(新潮社)

メモランダム(股関節2編/Kripalu DVD)

1.一人が仰向けになり、もう一人、パートナーが片足の足首のあたりをもって少し持ち上げながら脚を引っ張る。そのとき引っ張る人は「ねらい」を相手の股関節にしてみたり、みぞおちの奥(背骨に大腰筋がついてるあたり)にしてみたり、頸椎と頭の境にしてみたり。持ち上げる角度を少し変えて引っ張り上げてみたり、横にひろげてみたり・・。「脱力して脚をあずける」というのとはまた違った感じがおきます。受け手もその「ねらい」の場所を意識して引っ張られてそこがひらいていく、その中のスペースが拡がっていくようなイメージをもっていると、受けていてとても面白いと思います。股関節の場合、引っ張られている側の股関節だけでなく、もう片方の股関節が引っ張られる方につられていってしまわないように、ゆるんで「そこで動く」イメージをもっていると「ここに股間接があるのか」ということが実感できるように思います。もう片側の股関節を、ゆるんでいつつも「自分のからだの居場所の支点」として意識してみている、というイメージかなと思います。

2.ヨガの「三角のポーズ」で。自分がやっているところのヨガ(クリパル・ヨガ)では、「三角のポーズ」のときに骨盤を横に押し出すことによって上体が斜めに傾いていく感じになります。脚を開いてポジションを決めてそこから「骨盤を押し出」そうとしてもなかなか動いてくれない。(そのまま骨盤だけでやろうとするとブロックされているようでうまく動かないのは当たり前なのだが・・)真横に向いている脚のほうの股関節(?)が支点になってそこが骨盤を押し出しながら開かれていくような感覚でできるといいようです。これも股関節というものを実感としてはっきり感じられます。「知ってそうで知らなかった感触」。実はかなりきつく(笑)もあるのですが楽しくもある感覚です。

クリパルといえば、アメリカ版の教材(と言うのかしら?)DVDを見て「目からうろこ」という感じでした。「動きがすごい」とかいうようなこととは全く別の意味で。
いままでいくつかヨガのDVDはみたことがあるのだけれど「うごき」をみせていたり、「ポーズ」をみせていたり(もちろんそのための映像なのだろうけれど)という感じの印象のものが多かったのだけどこれはそういうものとは違っていました。うごきを映してしているというより「そこで感じられる感覚を味わっていることの中に入って、その場所から『自分』をみている」というようなありかたが映っているような感じでした。変なたとえだけれど、静かに佇んでいる動物から感じられるような「過不足なさ」の質感が、動いている人をみていて感じられてくるような。皮膚と空間の温度が自然と重なっていってひろがってそこの空気をつくっているような。

Sudha Carolyn Lundeen「Kripalu Yoga Gentle」

「Hands on」のなかの「space」

9/7~10の4日間、クラニオセイクラル・ワークというボディワークのセミナーに参加してきました。春に一日体験紹介(?)講座(イントロダクション)に参加して、今回は本セミナーの一番基礎の基礎の入り口の講座です。(クラニオセイクラル・ワークがどんなものなのかは春の講座に参加したときの記事を読んでいただけたらと思ます。)

「触れている」こと、「hands on」ということのうちにあるspaceというか「層」のようなものをいろいろ驚きながら感じていました。spaceの質が変わっていくと、感じられてくること、あいてからだから「聴こえてくること」(ひょっとしたら「聴こえてくること」ではなくて「相手のからだのほうがひらいて話しかけてくれること」でもあるのかもしれませんが)が変わってくるということを4日間のあいだにいくつか体験したように思います。

自分がふつうのチャンネルで「触れて」いちばんとらえやすい、tuningしやすい「からだの内側に感じられるmovement」は、心拍がからだにひろがっていった、血流がつたわっていくような質や内臓的な感じをうけるような密度のうごき。触れている手の内側や、自分の腹部の中での動きを感じながら、相手のからだの内側にも意識を向けると、(たとえば自分の腹部の中を放して、相手の腹部から感じられるうごきの気配とかさねていったりすると)自分のうごきとあいてのうごきがともに揺れている波になっていくような感覚に入ります。その感じに入って少し経つと、心なしか視界も揺らめいていくような感じになるときもあります。でも、この「うごき」の感じはクラニオのワークでtuningしていこうとする質の動きではないようです。

今回の講座ではクラニオのなかでとらえようとする潮の干満のようなうごきのうちの二つのもの、「Mid-tide」(Fluid-tide)と「Long-tide」を感じてみるということをしました。ミッドタイドは約2.5サイクル/60秒のモーション、ロングタイドは約1サイクル/100秒のリズムで触診されると言われています。ミッドタイドは液・組織にあらわれる質のうごきとして、ロングタイドは「身体とその周辺に作用する求心と遠心の風」のような質のうごきとして感じられるそうです。

受講者同士による練習交換セッションで自分がクライエント側(ベッドに寝て頭部に手を触れてもらっている)のとき、施術者・プラクティショナー側のパートナーのサポートとして講師のコマラギータ(加藤佳江子)さんが触れてくれて、その質感に驚きました。とても軽く柔らかく、「触れているけれど浮いている」というような質感に包まれるような感じです。そして、皮膚の面で触れられている(もちろん接しているところは「皮膚の面」なのですが)というよりは、Handの厚みそのもので触れられているような質感だったように思います。「意識を手に集中してしまわないで軽く触れる」とか「5グラムタッチ」と言葉で言ってもやはりよく掴みきれないのですが、「触れられた感触」として気付くことのほうが大きかったように思います。「これは触れられ、聴かれている身体のほうもひらいて『放して』いくなあ・・・」という。そのときのコマラギータさんの手から受けた感覚を自分の手の方にもうつしてみるようにイメージしてみて、また、その後で自分で自分の頭に触れてみて「受け手」・「触れる側」の両方同時にいろいろやってみて少しづつですが「これがミッドタイド?」という気配のものを感じ取れるようになってきました。受け手としての感触が変わっていくには触れる手の方の質感をどうしてみたらいいかな・・、そしてそのとき手のほうに感じられてくるものは変わってくるかな・・とセルフセッション。自分の感じとしては、やはり皮膚面ではなく掌の厚み全体で(甲のほうもふくめて)触れているような感じになって、触れている指だけでなく掌のまんなかのくぼみでもうごき、相手を感じて包むようにイメージしてみると感じとれやすくなるような感じがあります。ときには甲のほうの皮膚があいてのからだの表面の「水面のようなもの」に浸されつつ浮いていて手の本体?は「水面」のうちに隠れているみたいな感じにしてみると感じられるような気がするときもあります。でもそのときによって違うのだけれど。

最終日のテーマの一つは「ミッドタイドが感じられたら、ロングタイドに広げてみましょう」ということ。私の場合は受け手でいるときに自分のロングタイドを感じることはまだできない(というかよくわからない)のですがこの日のパートナーの方は感じとることができるようでした。膝からセッションに入っていって触れていたとき、「膝が上にあがっていく、このリズムの感じはロングタイドかも」(もちろん実際にベッドから膝が浮いていく訳ではないのですが)と言われて、そのとき触れている自分はその膝からのうごきを感じとれてはいなかったのですが、自分の手の感覚を、ミッドタイドを感じ取っていたときよりももっと軽く、掌、指の中の質感を「粒子がそのうちを動けるスペースのようなもの」「手指が粒子みたいなもので風がとおりぬけていくようなもの」そして触れているパートナーの膝も「粒子みたいな質感のもの」だとイメージしてみたら、「?!」というようにパートナーの膝が中からふわーっと膨らんでくるような動きが自分の手の触覚のフィールドにあらわれてきました。ミッドタイドよりももっと軽く気体的な質感のものがなかから膨らんでくるような感じで、感じているあいだにそのうごきは、「相手のからだの中の」というところから少しひろがって、こちらの手指の厚みくらいの空気の層まで一緒になって膨らみ、引いて、というような気配で感じられてきたようでした。パートナーの方と二人で「今、あがってきてるよね?」「うんうん」、「あ、下がっていった」「ほんとだ」というように驚き、話しながらやっていました。不思議だったことは、ロングタイドを感じた後にミッドタイドにシフトしなおしていったら、それまで「薄く」感じられていたミッドタイドが、流体的で内発的な力(ちいさいけれど自発力を秘めたものとして、という感じかな)をもっているものとして感じられてきたことでした。知覚する側がロングタイドの質から帰ってきたときに、よりミッドタイドの持っている質、気配が確かなものとして感じ取れたのかもしれません。このときのミッドタイドの感じは、「手を静かに浮かせておくと波のうごきが一緒に手を運んでくれる」というような感じに近かったように思います。

「受け手」としても、最終日はクラニオのさなかに起こることのエッセンシャルなものだとも言われている「スティルネス」というものを、はじめて自覚的に感じることができたかもしれないと思います。からだの中が感覚的にはとても静かなさざ波の湖面のような気配のものに感じられます。静かだけれど、空っぽというよりはなにか密度はしっかりとたたえられてあるというような感覚。そのなかで腰椎の下部のほうがひとつひとつくっついた骨のあいだを引き剥がして伸ばしていくような感じになったり、みそ落ちの下のほうから胸郭のなかのほうへ、呼吸ではないのだけれどなにか上ってくる感じがあって、それまでは「このままでは抜けてしまって立てないんじゃないのかしら」という感じだったのがなに芯のようなものがおさまるような感じになったりと、いろいろでした。

今回のクラニオセイクラルのセミナーでのことや自分でするワークなどのことを振り返ってみると、やはり「触れられて実感として気付くこと」というのがとてもあるように思います。たとえばコマラギータさんに触れられたときの感覚のことや、「緩めあい」のようなワークのなかで「踏むマッサージ」のようなものなどをとおしていろいろな人に「踏まれ」ることをとおして初めて気付いてくること。触れる側としては多分、触れ方の質が変化していくことによって感じられてくること(受信できること)が違ってくるし、またそれは「感度」の問題ということだけにすまされず、触れ方によってあいてのからだの方が「ひらいてくれる」「放してもいいと感じてくれる」質というかレベルも変わってくるように思います。実はtuningしていこうとするのは触れる側だけではなくて、触れられる側からもtuningをしようとするはたらきが起きていて、そのtuningが開いていくことにつながっていけるような、tuningしようとする流れをブロックしてしまわないような触れ方(聴き方?)という面がとても大きいのではということを思います。たとえば踏まれていて、(クラニオでの tuningとは見ようとしてる側面がだいぶ違うけれど)刺激を受け入れて受け止めてそこに身体をあわせていくのに必要な「間」(tuningのための必要な時間?)があるのを感じます。その「間」を「みとめてくれている」ということを踏み方の質としてからだが感じられれば、受けていても「強さ」(もちろん物理的に「無理」な強さ・痛さもありますが)や痛さの感覚を味わいながら、からだの中にそれを通して受け入れて流していくことができるというようなこともあるように感じています。

たとえば先に書いた、多田・フォン・トゥビッケル房代さんのセッション記録映像から感じ取られる触れ方・サポートのしかたと、同じ学会の購買で売られていた(テレビでサンプル映像が流れていた)外国の音楽療法家の方の教材ビデオでの触れ方・クライエントの手をとっての動かし方と(ほとんど音に合わせて歌いかけながらの「機能訓練」にしか見えなかった・・)との見ていて受ける感じの「ちがい」(それこそ、そこの空気の気配の「ふくらみ」の違いというような)などもあわせて、こういったことにつながるものとして考えてしまいます。

触れるということの中にあるいくつもの層やspaceの質のこと、それが変わっていくことで、「感じとれることが変わる」だけでなく「放してもらえる」(話してもらえる?かもしれませんが)ということの質もそこで変わっていくのだということを思います。

 ※クラニオセミナーのコマラギータさん、アシスタントの「りゅー」さん、そして一緒に参加されていた受講生の皆様、ありがとうございました。

「みみを澄ます-からだ と こえ-」

8/26日に、日帰りで仙台・宮城学院女子大学で開かれていた「第六回日本音楽療法学会学術大会」に行って来ました。行きは普通電車乗り継ぎ、帰りは夜行バスという節約とんぼ返り行程で。もちろん私は学会員ではないので一般参加での聴講です。目的は多田・フォン・トゥビッケル 房代(のぶよ)さんの講演を聞きに行くこと。多田・フォン・トゥビッケルさんはドイツのミュンスター郊外で「音のアトリエ」を開設して、音楽治療(彼女は"音楽療法"ではなく"音楽治療"と言われますが・・)のセッション、即興ワークショップ等をされている方です。講演は「みみを澄ます-からだ とこえ-」というタイトルでした。(多田さんの著書「響きの器」人間と歴史社刊については以前記事のなかで紹介したことがあります。)

多田さんが感じていること、思うようになったことなどを話された後、ケース(事例)でのセッションの様子、「うごき」を録音記録とヴィデオ記録によって必要によってコメント、説明を差し挟みながら紹介されました。


ドイツ語では「声」(stimme)という言葉から「調律する、調整する」(stimmen)という動詞がうまれ、その進行形の名詞型(stimmung)が「気配、気持ち、雰囲気」ということばになっていく。

耳(みみ)を澄ます-身と身を澄ます?-

かたちがあるものではないけれど、風の波動を感じると皮膚の「ふた」がおのずとひらいていくような・・・

自然に対して気配を気づかうようになっていくとこちらの感覚もひろがっていくように思う・・

声は「声」として表に発せられて気配としてあらわされる「前」から、そのひとやそこにあるものうちに(「波動の芽」?のようなものとして・・・)存在しているものではないかしら・・(出ている結果としての「声」ではない『声』?)

声が自由にうごけなければ「気配」もうまれていかない・・

(講演を聞きながらのメモからなので間違い、不備があるかもしれませんが・・)


回数をかさねて(何年ものなかでの、もあるようです)いくうちでのクライエントのからだからあらわれている気配、表情や、セッションのなかでの声の立体感のようなものの変化、うごきが録音やヴィデオから感じられます。また記録のヴィデオから感じられる多田さんの触れ方、身の置き方の気配も見ていてはっとさせられることが多々ありました。添い方、触れかたの質感と細やかなところにいくつもあるはずのspaceと、そして自分の感覚にもおりてあるような気配と。波動というか、動きや声の振動が交さなったり交換されるように伝わったり、ひろがっていくことのできるような係わりかけと、気配と。
「クライエントのあなたに」、というチャンネルの向きかただけでは、そこでなにかが動きひらいていくための単位としては開かれていなくて、「セラピストの私とあなたと」、ということでもきっとまだ十分ではなくて、空間、そして関わりのうちからあらわれてきた気配、空気のようなものや風のようなそこにあるものまでもが単位で、それはうごき流れていて・・、ということを多田さんのセッションの記録を見ていて感じさせられます。

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青山真治 「サッド・ヴァケイション」(新潮社刊)
古井由吉 「辻」(新潮社刊)
山中康裕 「こどものシグナル」(basilico刊)

メモランダム/チーズとうじ虫

7/28に久しぶりの踊りの会「塊に、転がす」をおえて。
鈍い光の空間、光の反映の空間のなかで、流れてしまわないで、でも閉じてしまうのでもないありかたをおいかける。背骨が支えたりkeepしていたりというのではない、両方向にずっと伸びて「ゆこう」としているベクトルでいるようにということ。その「方向力」みたいなものが、大切なような気がする。また、生理とつなげた「呼吸のような」ひとつにながれる感覚で「そのとき」を測っていくのではなく、肋骨や胸や、左右それぞれの手(hand)、足(foot)でそれぞれが「そのとき」を測っているような感じであるように、そして目、見ていることでも。動いているさなかの意識の質、静かさみたいなものがだいぶ変わってくる気がする。

ヨガは自分に向いてるらしく、具体的なからだのことで、ヨガをしているときに気付くこと、気付かされることが多い。先の背骨-ベクトルのことや目、見ているということの質の部分でも。

Adho Mukha Svanasana(下向きの犬)で腰を脚のほうにつなぎおろす(といっても高く上に向かうのだけど)ように受けたサポート。
Urdhva Mukha Svanasana(上向きの犬)での「支えている」のともkeepしているのとも違う、からだの中から張力がひろがっていくような感覚。

「チーズとうじ虫」というドキュメンタリー映画のことを友人に教えてもらい、今朝見に行く。東中野のポレポレ坐でのモーニングショー。今日が最終日だったので、加藤治代監督の挨拶も。
母親の病気、入院と死去、そしてそのあとの生活~を母、祖母、監督自身という家族(と兄の家族と)にビデオカメラを向けて撮っている。
「カメラを向ける-距離感の密度を詰める」というのとも違って、もちろん対象として観察、突き放して見ているというのでもなく、「空気というやわらかい一枚の皮膚のようなものを間にはさんでの隣りあい」というような距離感。「問う」というのではなくて、「聞いてみる」というような距離感。見ていて、加藤監督がとっている、選んでる距離感に共感して。

ひまわりにとまって蜜を力一杯吸っているアゲハも肥料用の残飯溜の中のうじ虫も同じようにうごいている。

母のことを撮ったビデオを亡くなったあと、祖母と監督が見ている。

撮られた映像、画だけではなくて、どんな空気を着るようにこのひとたちのなかで生活が時間になっていくのか感じられてくるような、そのことが作品になっているような映画のような感じがする。

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