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ある本から、です。

「相手をケアしているときは、同時に自分もケアしてもいるのだということ、ケアは誰のためでもなく、ほかならぬ自分のためでもあるということです。」

また、同じ本からですが、精神科医のウィニコットの言葉をひいたあとで、

「自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを、看護婦は容認しなければならないのです。しかも、それに報復もせず、いつか報われることがあるかもしれないことを期待して待つ能力、それが看護婦に求められているのです。」

二つ目に引いた言葉は私にはまだまったく遠いものですが、最初の言葉には実感として共鳴できるように思えます。もちろん、私の場合は「ケア」や「看護」というほどのものではなくて、ワークというときのうちで、ひとのからだを見ていたり、触れていたりといったことのなかで、ということなのですが・・。

人のからだに触れたり、横に座っているときなどは、どうすれば「つながり感」というような実感が動いていくか、とか、相手のからだから受ける感触を自分のからだの回路を経由してあいてに返していくかということを考えたり、ときに考えることから離れて、しているように思います。そのとき、アプローチしていくのはこちらなのだけれど、そこの場において作用を受けて何かベクトルにひかれているのはこちら側のほうでもあります。
というほどこねくりまわさなくても(笑)、人のからだをゆるめようとして相手に触れていることが自分をゆるめていくということは、結構みんな感じていることなのではないかと思うのですが・・。どうでしょう。

ふたりぐみで緩めあいのようなことをするときに、「揺らす」とか「圧す」というような部分、「仕方の表面上の内容」よりも、もっとベーシックかもしれない、どのへんの位置に身を置いて、触れるか、とか座っている座り方とか、そういったことが実は実感の広がる野のなかで、大事に思えることもあります。そういうことの「ちがい」に気づくこと、感じること。それは自分をみていくこと、少しのなかの自分の「ちがい」をみていくことなのだろうと思います。

武井麻子著「感情と看護」(医学書院)

感情と看護

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