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「普通」について

以前、「普通」「隣」「抱え」というタイトルで記事を書いたことがあります。私にとってはこの三つはそれぞれ微妙につながりあいつつ隣り合っているようなそのようなものなのかもしれません。「隣」と「普通」は自分のソロダンス・パフォーマンスのタイトルにも使っています。今現在進行形のシリーズタイトルが「普通」です。

踊り、パフォーマーのありようというところに即したことでいえば「普通」ということばをとても意識、考え始めたきっかけはある舞踊グループに2年ちかく参加していたときでした。主宰、演出家が「もっと普通でいいんだ」とか「普通でいろよ」とか「それは普通じゃないだろう」と稽古のさい声をかけます。彼の言う「普通」はいわゆる「Normal」ということではなくて、「舞台という特異的な空間、時間、場所においてそこでの『普通』が成立、流れて関係が動いていくための、パフォーマーにとっての要請されるありかた」というようなものだったように思います。「舞台の上での『普通』ということ」。舞台のうえで展開されていることがいわゆる普通でないことであればその存在を普通のこととして舞台上であれるありよう、ということかもしれません。
その「普通」ということにたいするとらえかたは自分にとって、ある契機でもあったように思います。「舞台上である生き方をしている存在にとってのそのものとしての存在意義」ということなのではないかと思います。そこでの見ている側にとっての「確かさ」というような。

今、自分がタイトル含め「普通」といっているときの意味合いはまたすこしちがうものになっています。うまく伝わらない言い方なのかもしれませんが、雑に言うと、「これでも普通だ」というような、そんなところに「普通」ということばを引っ張ってきたいような思いがあります。
いわゆる「Normalさ」という意味での「普通」ではなくて、それぞれの存在、その人にとっての「普通でありうること」を「普通」としてあれること、という感じなのではないかと思います。もちろんこれは自分の思いと言葉の話(そして、言葉の流通についての話でもあるけれど)なので、好き勝手な、適当な机上の話みたいになっているかもしれないけれど。

私の中にはほとんど人に話したくないもの、みせたくない(でもかい間見せてしまっているかもしれない?)ものもあります。みとめたくないけれどでも事実そうだろうという部分もあります。そのような、ある意味Mind-Bodyのあいだの深みのあいだまでいかなくても、感覚的志向のような部分でもいわゆる「Nomal」さにはおさめられない欲求とかあるのかもしれません。

「Normal」ということではなくて、「Ordinary」というイメージでの「普通」なのかもしれません。「普通」からはじまるというか「普通」としてはじまっていくよりないというか。普通ということばはどうしても「規範としてのもの」という匂いからはなれづらいけれど、もっと個々の皮膚の内側の匂いにちかいようなそれぞれにとってのそこからはじまる「普通」を思いたいです。
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