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「カップリング」のことなど

久しぶりの更新になってしまいました。
ずっと書きたくて、うまく書けないことのまわりをめぐっていました。それは「先生」ということについてです。精神医学、心理臨床関係の本を読んでいると、「先生」「師匠」という言葉によく出会います。決して、書いた人たち、語られている人たちが「医者、治療者である」からということにとどまらず、臨床家を育てる、育つことの中に「先生」との出会い、「先生」と感じられる人との出会い、ということが大切な要素のひとつなのかもしれないと思います。そこで育てられる「人」、「技術」が、人と出会い、抱え、生命性の自然治癒力が動き出すための触媒としてあるための「ありかたの質」のようなものなのだとすれば、それは「先生」と呼べるような人との出会いの中で揺り起こされて育まれるような「しずかなちから」のようなものなのかもしれません。

自分にとって、そのような意味での「先生」って?など考えてしまいます。(それは踊りのことにかぎらず、広い意味でですが・・・・。)最初に踊りを習った人が「先生」なの?と振り返ってみると、決して自分にはそうではないと思うし、一番意識させられて、サジェスチョンも受け、この人のようであるのは自分には無理だけれど・・・、と思っている人が「先生」なのかと思うと、それも少し違うような気がします。その人のことは、「先生」という「距離感」ではないところで会いたいという感じがあるのだと思います。
そのような感覚のベーシックには、「先生」として心決められないこちらの「なにか」があるようにも思います。ある踊り手の友人は、(その人は先輩でもありますが)「踊り(舞踏)は師をもたないんだ」という感じでいうのだけれど、その人の言うのは分かるけれど、でも、それも腑に落ちる訳ではないし・・・という感じです。

いくつか、読んだ本のこと。

 井上信子著 「対話の世界」-心理援助からいのちの教育へ-(新曜社刊)

「ドキュメント」だと思う。クライエント(スクールカウンセラーとして出会った子供達)や、大学で先生をめざして勉強している学生たちとのあいだでの「かかわり」、「対話」のドキュメント。
井上さんはそれぞれの「いのち」の資質の開花というような言葉で言っています。それぞれのいのちの資質が揺られ、開かれてくる「とき」の対話、かかわりの様子のドキュメントであり、またクライエントの方、学生の方それぞれの「いのちの資質」のうごきのドキュメントでもあるようにおもいます。そして同時に、井上さんと、井上さんの臨床の先生(神田橋條治さん)とのあいだの、井上さんの「いのちの資質」にとっての揺らぎ、葛藤と、対話のドキュメントでもあります。

「対話」として間奏のように挟まれる神田橋さんの、やわらかさと「距離感」の次元を行き来するような「風と揺れを入れることば」がドキュメントを角度を少しかえたところから照射します。(でも神田橋さんもドキュメントの当事者でもあるような・・・)。

「先生」のことを考えてしまうようになっていたときに、ちょうどこの本を読み出して、「タイムリー」にも、さらに思いがつかないようになっていってます。


 村瀬学著 「カップリングの思想」-「あなた」の存在論へ-(平凡社刊)

注意、注意力が人にとっての「空間」をつくる、というようなことを考えていました。たとえば目にはいり、「映った」看板とか、人とか、景色とか、そういった時に(ただ見えただけではなく少しでも注意の対象として「あった」その時に)どちらが先かは(こちらから注意が向いたからか、対象からひきつけられたからなのかは)言えないもののように思うけれど、注意が向いたとき、注意がそれに引きつけられたときその対象は何か「必要さ」をはらんだものとしてそこにたちあらわれていて、「空間を」つくりだしている、というような・・・。そして、人はその「作用(はたらき)」そのものをどうしても必要としているのではないか、というような・・。

先の「先生」のことやそのようなことに考えが巡ってしまうときに本屋の棚で偶然この本を見つけて、「これは絶対自分に今大事なものかもしれない」と思い、手に取りました。

村瀬さんの名前は滝川一廣さんの本のなかで村瀬さんの「理解のおくれの本質」という本のことが紹介されていたりして知ってはいたのですが、読んだのは初めてでした。

V.E.フランクルや、寝たきりの障害者の少女「天音」さんのご両親のことや、臓器移植体験者でイタリア・ルネサンス研究者の澤井繁男さんのこと・・・などを引いて、ひとという生き物、「人間」というもののどこかからわき上がってくる「生き『よう』とすることへのベクトル」がどこから生まれるか、「ひとり(単独)」であることではなく「カップリング」という形態、状態がベーシックであるのではないか・・・といったことを考えさせられます。

わたしにとっての「なにか」である、という意味での「あなた」(それはかならずしも人間だけとはかぎらないのだけど)の存在を必要とする、人間のなかの「なにか」エネルギーのようなもの。それが「いきているという感触」ととてもつながっているということ。

最近どんどん自分にとって必要である本、言葉がつながってきています。知らなかったものを偶然目にしたりということも含めて。そのような時期にはなぜかつながってあらわれてくるのかもしれません。


いきなり(ではないんだけれど、)思い立ってジャンベ(アフリカの太鼓、ハンド・パーカッション)を買ってきました。9インチなので、あまり大きくはないものだけれど、自分のからだにはフィットするボリューム。その辺をいろいろ叩き方のイメージ変えてみながら叩き方の感覚を変えてみる。「皮」という平面をヒットするようなつもりで叩くのか、ジャンベの木のボディに皮を通して垂直に風、空気の振動を送る、通してやるような感じで叩いてみたり、とか。で、先の村瀬さんの本の印象もあるので、ジャンベを「あなた」にしてみるというのもあるなあと思いつく。音を出す楽器、道具というより、叩くということをとおしてただジャンベという存在(もの)に話しかけ、伝えているような気持ちで叩いてみる。感覚は、かなり変わるし、充実感の質のようなものもそのなかで変わって、面白いです。
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