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「看護のための精神医学」

朝早めに家を出るので、東には上がったばかりの秋の陽と、西には白く透き通っているような月が見えます。今日のように雲もほとんどない天気だと(おまけに空気も澄んでいるようなので)、朝の月はとてもきれいです。

先週からずっとすこしづつ読み続けているのが「看護のための精神医学」(中井久夫・山口直彦著、医学書院刊)です。まだ半分くらいです。

文字通り、看護師、看護学生の方のための、精神科の病気や患者さんの医療・看護についての大切な案内書、という感じの本なのだと思います。私はある方のサイトKAMEL'S WEBSITEに神田橋條治さんのおすすめの本というのが紹介されてあり、それでこの本のことを知りました。

私のような「自分の側に引きつけた興味」で精神医学や臨床関係の本を読んでいる人間は、実際の病気のことや、治癒過程・治療関係のことなどをほとんど知りません。私の場合は実際に知人として精神疾患を引き受けてしまっている人という人も知らないでいます。そのようなところから読んでいる人にとってもこの本はとても実際に「患者さんの感覚の上に起こっていること」や、治療者・看護者・家族・周囲の人といったサポート側の人の「そばにいるありかたのうえでの気にかけるべきこと」に思いを巡らせてくれます。

「治療的にはたらく態度」(態度というか、「応対の気遣いの質」でしょうか)というものがあって、そのちょっとしたこと、気遣い、受け答え、声の音調・・・・・、で、患者さんにとっては「何か」になり得て、それが治癒への「地力のようなもの」、治癒へ向かえる「余裕のようなもの」をすこしづつ育くむ素地のための養分になっていくのでしょうか・・・。

以下は引用です。私にはとてもひきよせられる言葉です。

 急性統合失調状態を無理に「理解」しようとする必要はない。折れ合おうとする必要はない。できないことを無理にすると徒労で有害なだけだ。しかし人間は理解できないものでも包容することはできる。
 それは広い意味での「母性」である。筆者は男性だが、統合失調症の治療の際は、自分のなかの女性というか母性を動員している気がする。ただ、「母性」にも「副作用」がある。それはきつく包容しすぎて、窒息させることである。「卵を握るような、ふわりとして落とさない包容」という感じがよかろう。
 患者にたいするときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる。(p.142)


 慢性統合失調症の看護は、彼らを無視しないことから始まる。彼らがいないかのように廊下を急ぐ医療者は、患者からはさぞ「自閉的」に見えるだろう。軽くあいさつしながら廊下をゆっくり往復しているだけで病棟全体の雰囲気は変わる。これは「病棟を耕す」といって、荒れた病棟に着任したときにまず薦められる方法である。 


 患者を「精神医学化」しないことが大切である。「幻聴」と患者が言ったら、「ふしぎなささやき声?」と聞き返すようにするのがよい。


 引きこもっている悲妄想型の患者には、シュヴィング的方法がよいであろう。「人間が人間にとってものすごく危険ではないこと」を示し、人間になじんでもらう方法である。しかし患者の横に座る者はふしぎないらだちを感じて、用事を思いだして席を立ってしまう。これに耐えて、ふわりと患者の側に座っているということは簡単そうでむずかしいが、治療関係の出発点である。
 「コメントの多い母親」に似た行動をとらないのも重要なポイントである。


 急性期の錯乱している患者にたいしては、「いまは、あなたの人生に何回もない、非常に重要な時期だ。これを乗り切るために協力してほしい」
 反論に対しては、「あなたは生まれてからこうだったのだろうか?」
 治療関係の中で、「あなたが何をするか、何をしたいか、何をしたくないかを考えるゆとり(自由)がもてるまでお供しましょう」
 「精神病の治療の目標は、病気の前に戻すことではない。病気の前には、どこか不安定なところがあり、病気の種子があったに違いない(たいていの患者はうなずく)。病気の前よりもよくなる必要がある。そこに治療のむずかしさもあるのだけれど、せっかく貴重な体験をしたのだから。たとえ見ばえはしなくとも病気の前よりも安定した状態になることが大切だ。それは思いつめないゆとりのある状態であり、いちばん悪いことがいちばん実現しそうに思わない状態であり、アンテナがピリピリしてノイズまで拾ってしまわない状態だ」・・・・・・など。
         (以上p150~152)


引用が長くなってまったけれど、こういった言葉が背景にしている「気配」は、「直接」ではないかもしれないけれど、「踊っているときの自分と環境、人とのあいだの感覚」を考えたり省みたりということの大切な部分とリンクしているような気がします。「見えておもしろそうなこと」をしたり、自分の「My World」のようなものをただ環境に「これを見なさい」というようにぶつけたり、「自分の動き」のようなものを空間にただ置き捨てていくことを第一のようにパフォーマンスすることよりも、踊ることにとっての「何か、ベーシックとそのまわり」とにつながっているようなことがあるように思えます。一見、ダンスやパフォーマンスといったことがらと全く違う世界のことを書いてあるような言葉だけれど、そうではないのではないかなと、思います。

看護のための精神医学
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