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2006年09月

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「Hands on」のなかの「space」

9/7~10の4日間、クラニオセイクラル・ワークというボディワークのセミナーに参加してきました。春に一日体験紹介(?)講座(イントロダクション)に参加して、今回は本セミナーの一番基礎の基礎の入り口の講座です。(クラニオセイクラル・ワークがどんなものなのかは春の講座に参加したときの記事を読んでいただけたらと思ます。)

「触れている」こと、「hands on」ということのうちにあるspaceというか「層」のようなものをいろいろ驚きながら感じていました。spaceの質が変わっていくと、感じられてくること、あいてからだから「聴こえてくること」(ひょっとしたら「聴こえてくること」ではなくて「相手のからだのほうがひらいて話しかけてくれること」でもあるのかもしれませんが)が変わってくるということを4日間のあいだにいくつか体験したように思います。

自分がふつうのチャンネルで「触れて」いちばんとらえやすい、tuningしやすい「からだの内側に感じられるmovement」は、心拍がからだにひろがっていった、血流がつたわっていくような質や内臓的な感じをうけるような密度のうごき。触れている手の内側や、自分の腹部の中での動きを感じながら、相手のからだの内側にも意識を向けると、(たとえば自分の腹部の中を放して、相手の腹部から感じられるうごきの気配とかさねていったりすると)自分のうごきとあいてのうごきがともに揺れている波になっていくような感覚に入ります。その感じに入って少し経つと、心なしか視界も揺らめいていくような感じになるときもあります。でも、この「うごき」の感じはクラニオのワークでtuningしていこうとする質の動きではないようです。

今回の講座ではクラニオのなかでとらえようとする潮の干満のようなうごきのうちの二つのもの、「Mid-tide」(Fluid-tide)と「Long-tide」を感じてみるということをしました。ミッドタイドは約2.5サイクル/60秒のモーション、ロングタイドは約1サイクル/100秒のリズムで触診されると言われています。ミッドタイドは液・組織にあらわれる質のうごきとして、ロングタイドは「身体とその周辺に作用する求心と遠心の風」のような質のうごきとして感じられるそうです。

受講者同士による練習交換セッションで自分がクライエント側(ベッドに寝て頭部に手を触れてもらっている)のとき、施術者・プラクティショナー側のパートナーのサポートとして講師のコマラギータ(加藤佳江子)さんが触れてくれて、その質感に驚きました。とても軽く柔らかく、「触れているけれど浮いている」というような質感に包まれるような感じです。そして、皮膚の面で触れられている(もちろん接しているところは「皮膚の面」なのですが)というよりは、Handの厚みそのもので触れられているような質感だったように思います。「意識を手に集中してしまわないで軽く触れる」とか「5グラムタッチ」と言葉で言ってもやはりよく掴みきれないのですが、「触れられた感触」として気付くことのほうが大きかったように思います。「これは触れられ、聴かれている身体のほうもひらいて『放して』いくなあ・・・」という。そのときのコマラギータさんの手から受けた感覚を自分の手の方にもうつしてみるようにイメージしてみて、また、その後で自分で自分の頭に触れてみて「受け手」・「触れる側」の両方同時にいろいろやってみて少しづつですが「これがミッドタイド?」という気配のものを感じ取れるようになってきました。受け手としての感触が変わっていくには触れる手の方の質感をどうしてみたらいいかな・・、そしてそのとき手のほうに感じられてくるものは変わってくるかな・・とセルフセッション。自分の感じとしては、やはり皮膚面ではなく掌の厚み全体で(甲のほうもふくめて)触れているような感じになって、触れている指だけでなく掌のまんなかのくぼみでもうごき、相手を感じて包むようにイメージしてみると感じとれやすくなるような感じがあります。ときには甲のほうの皮膚があいてのからだの表面の「水面のようなもの」に浸されつつ浮いていて手の本体?は「水面」のうちに隠れているみたいな感じにしてみると感じられるような気がするときもあります。でもそのときによって違うのだけれど。

最終日のテーマの一つは「ミッドタイドが感じられたら、ロングタイドに広げてみましょう」ということ。私の場合は受け手でいるときに自分のロングタイドを感じることはまだできない(というかよくわからない)のですがこの日のパートナーの方は感じとることができるようでした。膝からセッションに入っていって触れていたとき、「膝が上にあがっていく、このリズムの感じはロングタイドかも」(もちろん実際にベッドから膝が浮いていく訳ではないのですが)と言われて、そのとき触れている自分はその膝からのうごきを感じとれてはいなかったのですが、自分の手の感覚を、ミッドタイドを感じ取っていたときよりももっと軽く、掌、指の中の質感を「粒子がそのうちを動けるスペースのようなもの」「手指が粒子みたいなもので風がとおりぬけていくようなもの」そして触れているパートナーの膝も「粒子みたいな質感のもの」だとイメージしてみたら、「?!」というようにパートナーの膝が中からふわーっと膨らんでくるような動きが自分の手の触覚のフィールドにあらわれてきました。ミッドタイドよりももっと軽く気体的な質感のものがなかから膨らんでくるような感じで、感じているあいだにそのうごきは、「相手のからだの中の」というところから少しひろがって、こちらの手指の厚みくらいの空気の層まで一緒になって膨らみ、引いて、というような気配で感じられてきたようでした。パートナーの方と二人で「今、あがってきてるよね?」「うんうん」、「あ、下がっていった」「ほんとだ」というように驚き、話しながらやっていました。不思議だったことは、ロングタイドを感じた後にミッドタイドにシフトしなおしていったら、それまで「薄く」感じられていたミッドタイドが、流体的で内発的な力(ちいさいけれど自発力を秘めたものとして、という感じかな)をもっているものとして感じられてきたことでした。知覚する側がロングタイドの質から帰ってきたときに、よりミッドタイドの持っている質、気配が確かなものとして感じ取れたのかもしれません。このときのミッドタイドの感じは、「手を静かに浮かせておくと波のうごきが一緒に手を運んでくれる」というような感じに近かったように思います。

「受け手」としても、最終日はクラニオのさなかに起こることのエッセンシャルなものだとも言われている「スティルネス」というものを、はじめて自覚的に感じることができたかもしれないと思います。からだの中が感覚的にはとても静かなさざ波の湖面のような気配のものに感じられます。静かだけれど、空っぽというよりはなにか密度はしっかりとたたえられてあるというような感覚。そのなかで腰椎の下部のほうがひとつひとつくっついた骨のあいだを引き剥がして伸ばしていくような感じになったり、みそ落ちの下のほうから胸郭のなかのほうへ、呼吸ではないのだけれどなにか上ってくる感じがあって、それまでは「このままでは抜けてしまって立てないんじゃないのかしら」という感じだったのがなに芯のようなものがおさまるような感じになったりと、いろいろでした。

今回のクラニオセイクラルのセミナーでのことや自分でするワークなどのことを振り返ってみると、やはり「触れられて実感として気付くこと」というのがとてもあるように思います。たとえばコマラギータさんに触れられたときの感覚のことや、「緩めあい」のようなワークのなかで「踏むマッサージ」のようなものなどをとおしていろいろな人に「踏まれ」ることをとおして初めて気付いてくること。触れる側としては多分、触れ方の質が変化していくことによって感じられてくること(受信できること)が違ってくるし、またそれは「感度」の問題ということだけにすまされず、触れ方によってあいてのからだの方が「ひらいてくれる」「放してもいいと感じてくれる」質というかレベルも変わってくるように思います。実はtuningしていこうとするのは触れる側だけではなくて、触れられる側からもtuningをしようとするはたらきが起きていて、そのtuningが開いていくことにつながっていけるような、tuningしようとする流れをブロックしてしまわないような触れ方(聴き方?)という面がとても大きいのではということを思います。たとえば踏まれていて、(クラニオでの tuningとは見ようとしてる側面がだいぶ違うけれど)刺激を受け入れて受け止めてそこに身体をあわせていくのに必要な「間」(tuningのための必要な時間?)があるのを感じます。その「間」を「みとめてくれている」ということを踏み方の質としてからだが感じられれば、受けていても「強さ」(もちろん物理的に「無理」な強さ・痛さもありますが)や痛さの感覚を味わいながら、からだの中にそれを通して受け入れて流していくことができるというようなこともあるように感じています。

たとえば先に書いた、多田・フォン・トゥビッケル房代さんのセッション記録映像から感じ取られる触れ方・サポートのしかたと、同じ学会の購買で売られていた(テレビでサンプル映像が流れていた)外国の音楽療法家の方の教材ビデオでの触れ方・クライエントの手をとっての動かし方と(ほとんど音に合わせて歌いかけながらの「機能訓練」にしか見えなかった・・)との見ていて受ける感じの「ちがい」(それこそ、そこの空気の気配の「ふくらみ」の違いというような)などもあわせて、こういったことにつながるものとして考えてしまいます。

触れるということの中にあるいくつもの層やspaceの質のこと、それが変わっていくことで、「感じとれることが変わる」だけでなく「放してもらえる」(話してもらえる?かもしれませんが)ということの質もそこで変わっていくのだということを思います。

 ※クラニオセミナーのコマラギータさん、アシスタントの「りゅー」さん、そして一緒に参加されていた受講生の皆様、ありがとうございました。

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