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2006年08月

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「みみを澄ます-からだ と こえ-」

8/26日に、日帰りで仙台・宮城学院女子大学で開かれていた「第六回日本音楽療法学会学術大会」に行って来ました。行きは普通電車乗り継ぎ、帰りは夜行バスという節約とんぼ返り行程で。もちろん私は学会員ではないので一般参加での聴講です。目的は多田・フォン・トゥビッケル 房代(のぶよ)さんの講演を聞きに行くこと。多田・フォン・トゥビッケルさんはドイツのミュンスター郊外で「音のアトリエ」を開設して、音楽治療(彼女は"音楽療法"ではなく"音楽治療"と言われますが・・)のセッション、即興ワークショップ等をされている方です。講演は「みみを澄ます-からだ とこえ-」というタイトルでした。(多田さんの著書「響きの器」人間と歴史社刊については以前記事のなかで紹介したことがあります。)

多田さんが感じていること、思うようになったことなどを話された後、ケース(事例)でのセッションの様子、「うごき」を録音記録とヴィデオ記録によって必要によってコメント、説明を差し挟みながら紹介されました。


ドイツ語では「声」(stimme)という言葉から「調律する、調整する」(stimmen)という動詞がうまれ、その進行形の名詞型(stimmung)が「気配、気持ち、雰囲気」ということばになっていく。

耳(みみ)を澄ます-身と身を澄ます?-

かたちがあるものではないけれど、風の波動を感じると皮膚の「ふた」がおのずとひらいていくような・・・

自然に対して気配を気づかうようになっていくとこちらの感覚もひろがっていくように思う・・

声は「声」として表に発せられて気配としてあらわされる「前」から、そのひとやそこにあるものうちに(「波動の芽」?のようなものとして・・・)存在しているものではないかしら・・(出ている結果としての「声」ではない『声』?)

声が自由にうごけなければ「気配」もうまれていかない・・

(講演を聞きながらのメモからなので間違い、不備があるかもしれませんが・・)


回数をかさねて(何年ものなかでの、もあるようです)いくうちでのクライエントのからだからあらわれている気配、表情や、セッションのなかでの声の立体感のようなものの変化、うごきが録音やヴィデオから感じられます。また記録のヴィデオから感じられる多田さんの触れ方、身の置き方の気配も見ていてはっとさせられることが多々ありました。添い方、触れかたの質感と細やかなところにいくつもあるはずのspaceと、そして自分の感覚にもおりてあるような気配と。波動というか、動きや声の振動が交さなったり交換されるように伝わったり、ひろがっていくことのできるような係わりかけと、気配と。
「クライエントのあなたに」、というチャンネルの向きかただけでは、そこでなにかが動きひらいていくための単位としては開かれていなくて、「セラピストの私とあなたと」、ということでもきっとまだ十分ではなくて、空間、そして関わりのうちからあらわれてきた気配、空気のようなものや風のようなそこにあるものまでもが単位で、それはうごき流れていて・・、ということを多田さんのセッションの記録を見ていて感じさせられます。

++++++++++

青山真治 「サッド・ヴァケイション」(新潮社刊)
古井由吉 「辻」(新潮社刊)
山中康裕 「こどものシグナル」(basilico刊)

メモランダム/チーズとうじ虫

7/28に久しぶりの踊りの会「塊に、転がす」をおえて。
鈍い光の空間、光の反映の空間のなかで、流れてしまわないで、でも閉じてしまうのでもないありかたをおいかける。背骨が支えたりkeepしていたりというのではない、両方向にずっと伸びて「ゆこう」としているベクトルでいるようにということ。その「方向力」みたいなものが、大切なような気がする。また、生理とつなげた「呼吸のような」ひとつにながれる感覚で「そのとき」を測っていくのではなく、肋骨や胸や、左右それぞれの手(hand)、足(foot)でそれぞれが「そのとき」を測っているような感じであるように、そして目、見ていることでも。動いているさなかの意識の質、静かさみたいなものがだいぶ変わってくる気がする。

ヨガは自分に向いてるらしく、具体的なからだのことで、ヨガをしているときに気付くこと、気付かされることが多い。先の背骨-ベクトルのことや目、見ているということの質の部分でも。

Adho Mukha Svanasana(下向きの犬)で腰を脚のほうにつなぎおろす(といっても高く上に向かうのだけど)ように受けたサポート。
Urdhva Mukha Svanasana(上向きの犬)での「支えている」のともkeepしているのとも違う、からだの中から張力がひろがっていくような感覚。

「チーズとうじ虫」というドキュメンタリー映画のことを友人に教えてもらい、今朝見に行く。東中野のポレポレ坐でのモーニングショー。今日が最終日だったので、加藤治代監督の挨拶も。
母親の病気、入院と死去、そしてそのあとの生活~を母、祖母、監督自身という家族(と兄の家族と)にビデオカメラを向けて撮っている。
「カメラを向ける-距離感の密度を詰める」というのとも違って、もちろん対象として観察、突き放して見ているというのでもなく、「空気というやわらかい一枚の皮膚のようなものを間にはさんでの隣りあい」というような距離感。「問う」というのではなくて、「聞いてみる」というような距離感。見ていて、加藤監督がとっている、選んでる距離感に共感して。

ひまわりにとまって蜜を力一杯吸っているアゲハも肥料用の残飯溜の中のうじ虫も同じようにうごいている。

母のことを撮ったビデオを亡くなったあと、祖母と監督が見ている。

撮られた映像、画だけではなくて、どんな空気を着るようにこのひとたちのなかで生活が時間になっていくのか感じられてくるような、そのことが作品になっているような映画のような感じがする。

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