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2005年06月

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不確かさの中を

精神科医、神田橋條治さんと心理臨床家、滝口俊子さんの対話「不確かさの中を」(創元社)を読み返しています。一番最初に読んだ神田橋さんの本がこの本でした。

「治療する・される関係には、まあいろいろ起こるんだけど、患者にとっては。自分が治療者をサポートできたとか、治療者の役に立ったとか感じることが、すごいサポートになるんだよね。それは、お手伝いをしている子供に、ちょっと似ている。それが自我感情をふくらませるんだよね。そういう思いを患者にさせることで患者を支える段階だと、これは、治療の技術です。対話精神療法は、そこより先を目指してる。それぞれ別の背景や資質を持っている者同士が話し合うと、両方とも利益を得るでしょう。そんなふうに、両党ともが利益を得て、同時に相手に寄与し得たという体験によって両方ともが支えられる、そういうものを目指している」(神田橋)

どのようなこと、かかわりが人の自然治癒力をひきおこしていくのだろうかということ、そのかかわりのためにどのようにクライエントを「観察」していき、かかわるのか。「踊ること」や「からだをみること」にとてもつながるものとしてうけとめることができます。

「普通」について

以前、「普通」「隣」「抱え」というタイトルで記事を書いたことがあります。私にとってはこの三つはそれぞれ微妙につながりあいつつ隣り合っているようなそのようなものなのかもしれません。「隣」と「普通」は自分のソロダンス・パフォーマンスのタイトルにも使っています。今現在進行形のシリーズタイトルが「普通」です。

踊り、パフォーマーのありようというところに即したことでいえば「普通」ということばをとても意識、考え始めたきっかけはある舞踊グループに2年ちかく参加していたときでした。主宰、演出家が「もっと普通でいいんだ」とか「普通でいろよ」とか「それは普通じゃないだろう」と稽古のさい声をかけます。彼の言う「普通」はいわゆる「Normal」ということではなくて、「舞台という特異的な空間、時間、場所においてそこでの『普通』が成立、流れて関係が動いていくための、パフォーマーにとっての要請されるありかた」というようなものだったように思います。「舞台の上での『普通』ということ」。舞台のうえで展開されていることがいわゆる普通でないことであればその存在を普通のこととして舞台上であれるありよう、ということかもしれません。
その「普通」ということにたいするとらえかたは自分にとって、ある契機でもあったように思います。「舞台上である生き方をしている存在にとってのそのものとしての存在意義」ということなのではないかと思います。そこでの見ている側にとっての「確かさ」というような。

今、自分がタイトル含め「普通」といっているときの意味合いはまたすこしちがうものになっています。うまく伝わらない言い方なのかもしれませんが、雑に言うと、「これでも普通だ」というような、そんなところに「普通」ということばを引っ張ってきたいような思いがあります。
いわゆる「Normalさ」という意味での「普通」ではなくて、それぞれの存在、その人にとっての「普通でありうること」を「普通」としてあれること、という感じなのではないかと思います。もちろんこれは自分の思いと言葉の話(そして、言葉の流通についての話でもあるけれど)なので、好き勝手な、適当な机上の話みたいになっているかもしれないけれど。

私の中にはほとんど人に話したくないもの、みせたくない(でもかい間見せてしまっているかもしれない?)ものもあります。みとめたくないけれどでも事実そうだろうという部分もあります。そのような、ある意味Mind-Bodyのあいだの深みのあいだまでいかなくても、感覚的志向のような部分でもいわゆる「Nomal」さにはおさめられない欲求とかあるのかもしれません。

「Normal」ということではなくて、「Ordinary」というイメージでの「普通」なのかもしれません。「普通」からはじまるというか「普通」としてはじまっていくよりないというか。普通ということばはどうしても「規範としてのもの」という匂いからはなれづらいけれど、もっと個々の皮膚の内側の匂いにちかいようなそれぞれにとってのそこからはじまる「普通」を思いたいです。

-Side-

ある本から、です。

「相手をケアしているときは、同時に自分もケアしてもいるのだということ、ケアは誰のためでもなく、ほかならぬ自分のためでもあるということです。」

また、同じ本からですが、精神科医のウィニコットの言葉をひいたあとで、

「自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを、看護婦は容認しなければならないのです。しかも、それに報復もせず、いつか報われることがあるかもしれないことを期待して待つ能力、それが看護婦に求められているのです。」

二つ目に引いた言葉は私にはまだまったく遠いものですが、最初の言葉には実感として共鳴できるように思えます。もちろん、私の場合は「ケア」や「看護」というほどのものではなくて、ワークというときのうちで、ひとのからだを見ていたり、触れていたりといったことのなかで、ということなのですが・・。

人のからだに触れたり、横に座っているときなどは、どうすれば「つながり感」というような実感が動いていくか、とか、相手のからだから受ける感触を自分のからだの回路を経由してあいてに返していくかということを考えたり、ときに考えることから離れて、しているように思います。そのとき、アプローチしていくのはこちらなのだけれど、そこの場において作用を受けて何かベクトルにひかれているのはこちら側のほうでもあります。
というほどこねくりまわさなくても(笑)、人のからだをゆるめようとして相手に触れていることが自分をゆるめていくということは、結構みんな感じていることなのではないかと思うのですが・・。どうでしょう。

ふたりぐみで緩めあいのようなことをするときに、「揺らす」とか「圧す」というような部分、「仕方の表面上の内容」よりも、もっとベーシックかもしれない、どのへんの位置に身を置いて、触れるか、とか座っている座り方とか、そういったことが実は実感の広がる野のなかで、大事に思えることもあります。そういうことの「ちがい」に気づくこと、感じること。それは自分をみていくこと、少しのなかの自分の「ちがい」をみていくことなのだろうと思います。

武井麻子著「感情と看護」(医学書院)

感情と看護

からだのなかの水を泳ぐ

先の記事にも書いた、ワークのなかで。
からだを水の入った袋だとイメージして揺らし、揺らされる。
水が入った袋(実際人体の多くは水分だということによっているイメージですが)だととらえれば、足首から伝えられた揺れも全身につたわり、からだを緩めていく波になります。とはわかっていても、そううまくはいかない部分もあるのですが・・。

受ける側でいたとき、「からだが水の入った袋」というだけではなく、「水のはいった袋」である自分のからだのなかの水のなかを、「揺らされながら泳いでいる」(自分のからだの「なか」の水のなかを自分が泳ぐというのは考えてみると変なイメージなのですが)と思ってみると揺れに、揺らされている感覚のなかにしずんでいくような、一体になるような感じがあり緩みやすいような気がします。些細な発見ですが・・。

読んだもの

「緩和のこころ」岸本寛史著(誠信書房刊) 
先の「癌と心理療法」につづいての、本です。癌にかぎらず、もっと根本的に「医療における患者さんに添うこと」のありかたと問題を考えようとしていく岸本さんの作業、道のように思います。

緩和のこころ

「上胸に窓をあけて」

どんどん更新期間があいて行きます(笑)。
ブログタイトルを今までの「風の聲、足の音」から「からだの作業場通信」に改めました。少し気持、気分をかえたかったので。といっても、からだのこと、ワークのことにかぎらずに、と思います。

1)五月末のタテタカコさんのライブ、@Star Pine's Cafeに。初めて見る、グランドピアノでの引き語り。さすがピアノの音がエレピより落ち着いて深い(笑)。歌を聴いているのだけど、歌っているときのからだから受ける感じや、歌い出す直前の「からだ感触」のようなものを追いかけながら聴いているような感じ。歌い出すまえに、上(天井?照明?空?)をみあげて、何かが自分のなかにおさまるのを待って確認してから歌い出す。ほとんどすべての曲でそのように、一度「息」のために立ち止まるような感じが入る。曲間の間合いとしてはとても妙な間なのだけれど、ひとつひとつ自分のなかに何かをちゃんとおろしてから歌い出す、そのときの感じにとてもひかれます。細く小さいタテさんが「太く」あるような感じとでもいうか・・。

ライブを見たあと、国立でErick Hawkinsテクニックについての本の研究会に。Erick Hawkinsテクニックはモダンダンスのテクニック体系のひとつです。その本に載っていたHawkinsの写真にびっくり。ある意味異様に(?)美しい。奥行き、まとまり感、そして落ち着き感をともなった動きのすがた。エネルギーは流れ、なげられつつも、「静か」な印象。
研究会のなかで宮崎祐子さんが「仙骨は背骨のおりていく位置よりかなり後ろにあるのを意識して感じてみるといい」というようなことを言われて、感覚を追っかけてみる。「骨盤自体がそこにそこにはっきり据えられてある」ような感覚がすこしみえてくるような気がする。

2)5/31「からだの作業場」ワークで。参加してくれた清水さん(歌い手さん)のリーダー、サジェスチョンによる野口体操的なアプローチによる緩めあい。二人組で一人床に寝て、一人が相手を揺らして重さ、力の具合に気づかせていくというようなワーク。寝ている「受け手」にかぎらず、揺らし役のほうも、どういうふうに相手を持ったり触れたりすれば「つながり」感をもてるか、揺れを、「持つことによるブロック」にならずに伝えられるか、そのときの自分はどんな状態か?など感じフィードバックさせる機会でもあります。
もうひとつ、さいしょにゆっくり時間をかけてやった、「体を細かく大事に意識していく作業」(これだけ読んでもなんのことやら、だと思いますが・・)もそういう意識の質でからだを見つめる時間をもつだけで自分の肉体感覚としての「身体」が開かれてきます。

3)からだにのせてみることば、です。自分が胸部を閉じて固めてしまいやすいからでもあるのだけれど、、上胸の表面に「窓」があり(鳩時計の「窓」のようなイメージかしら)その開き戸が左右に開け放たれるようなイメージを持つと呼吸がひらいて、座骨もクリアに感じられるような気がします。「背中」があるべきところに戻る、ような感じも・・。「外に」だけでなく、「内」にもなにかつながり抜ける道が通るんでしょうね。

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