Home > 2005年04月

2005年04月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • Comments (Close): -
  • TrackBack (Close): -

心のうえのこと(オウムと私・林郁夫著)

先の記事を書いてからまた大分間があいてしまいました。

前の記事に書いた早川紀代秀さんの本を読んでから続けて、というか続けざるを得ないような感じで、村上春樹によるインタビュー「約束された場所で」(文春文庫)と林郁夫さんによる「オウムと私」(文春文庫)を読んでいます。「約束された場所で」は元信徒、出家者の人たちへのインタビューに村上春樹、河合隼雄両氏の間の二つの対談が加えられたものです。(この対談もとても考えさせるものです。)

「約束された場所で」を読むと、幹部(といってもステージにや役割によってどこまで様々なことを知る立場にあったかは様々なようです)、普通の出家者との間の意識、感覚の違いなども見えてきます。また「ふつうの」出家者の視点からの当時のオウムの内側の気配なども感じられます。私とほとんど同じ年齢、世代の人たちもインタビューされていたりして、いろいろ思うところもあります。

どこか「自分はこの外側のゆがみをもった社会に染まらないで純粋にいたい」というような心象、志向や、それと重なっての「社会を純粋なよい方向に、修行や超能力を得ることでかえていきたい」というような志向、傾向がおおまかにいうとどこか流れているようにも思います。そして、ノストラダムスの予言などのような「近く世界は破滅してしまう」というような終末論傾向も流れている傾向もあるような気がします。そして裏返しの、どこか「選ばれた者」的な選民思想のような差別化も・・。そして、また、そのような終末論や、世界の仕組みや、自分の存在と世界のつながりを「きれいに」、「すっきりと」説明できる法則を求めているような傾向もあるように思います。そのような「法則」としてオウムの書籍や教義に出会った人たちも多いのかもしれません。

私には全く超能力を手に入れたいとか、ノストラダムスの予言に本心からおろおろするといった志向がないのだけれど、もしそういう傾向があって何かでオウムのことを知ったらひょっとしたら引きつけられていたりすることもあったのかもしれないとも思います。近い部分や、わかる気もする部分、言葉の上としては「?」もありつつもそういうこともあるのか、と思える部分・・・もあります。決して遠いだけの人たちとしてはくくれないような気がします。

一つ思ったのは、「超能力を手にすることで、そして解脱することで本当の真の自分を」というのは決してオウムのような宗教にかぎらず、「こうすれば願ったことがなんでもかなう、成功する」といったうたい文句がつけられた啓発本やセミナーや心理書にも実はほとんど同じ構造のにおいがあるように思います。

林郁夫さんの本は、自身の医者の家での生まれ育ちから、宗教や修行にひかれていった経緯から始まり、阿含宗を経てオウム真理教に惹かれていく過程、そして教団のなかでのことなどを、そのときの「事実」だけでなく「彼のこころの中で幾重にもかさなりつつおきていたこと」を丹念に掘り起こし書きおこしている本です。そして振り返りながら自分で自分の心を「なぜそうだったのか」と検証しなおしていっている本でもあります。「心はひとつ」ではなくていくつも水面から浮き沈みするようにあって・・・。教団のなかでなにがあったのか、とか、どのように犯罪行為が、ということもあるけれど、それよりもそのなかでどのように感じ、葛藤し、揺れて、でも信じるもの、存在、世界観とのあいだでいくつかの事件(地下鉄事件もそのなかに入るけれど)を「踏んで」いくようになったのかを思わされます。

地下鉄サリン事件を実行する直前のときの心のこと、自分のことを省みて検証したあとの部分で彼は「私が述べてきたことは、客観的にいってしまえば、単なる『いいわけ』の心理ということになるのかと思いますが、敢えて私の立場を忘れていわせていただくなら、これを『いいわけ』といってしまうと、人の心の真実というものは、なに一つ成り立たないのではないかと、私は現在でも思っています。」(p.519)と書いています。「それ以外できないようにし向けられていたからしょうがなかったのだ」というようなことではなく、「そのとき私はこうやって思いやからだをなんとか『整理して』そのことへの最後の一線を踏んでしまい、またその『整理』の奥で動いていたことはこういうことだったのかもしれない」ということを自分や他の「その一線を踏んでしまった者」のためにも書きおかねばならないというような思いなのではないかと思います。

「私にとってオウムとは何だったのか」

ここ数日読み続けていた本があります。早川紀代秀、川村邦光著「私にとってオウムとは何だったのか」(ポプラ社刊)です。

宗教学者川村邦光さんが、既知の弁護士(彼はオウム真理教の裁判で早川紀代秀被告の控訴審の弁護人をしているのですが)に請われ、証人尋問をしたことによって公判に関わったことをきっかけに生まれることになった本です。(裁判の状況としては現在控訴審では死刑判決が出ていて、最高裁に上告中です。)

本当は読んでもらえるのが一番いいことで、変な紹介などはしないほうがいいようなタイプのものなのかもしれませんが、この本の中で早川紀代秀さんは自分の生い立ちから、自分の惹かれてきた世界、世界観、志向等を省みることによって、自分がなぜオウム神仙の会に(それはとりもなおさず麻原彰晃というひとになぜひかれていったのかということにもなるのですが)惹かれていったのか自分を洗い出しています。また、ヨガサークル的な色合いを受けた「神仙の会」が途中から宗教色の強い団体「オウム真理教」になっていく過程、自身の出家への過程、そしてしだいに「ハルマゲドン」を防ぐためには、そして真理のためにはそれに反する人をポアによって「救って」もいいという(単純化して書いています。この辺りは本を実際に読んでいただけたらと思います。)志向になっていったのかを、実際にそこに惹かれ入会し、また内部でさまざまなことに手を染めてしまうこととなった者として、しかし、それを自分のことを検証しつつふりかえるものとして冷静に言葉に落としていかれています。

内側にいなかったもの、TVで選挙運動の様子(はりぼて人形が教祖の歌でおどっているような)などを見ての知識しかないものには「なんであんないんちきくさいのに・・」とか、思えてしまうのかもしれないけれど、ヨーガや瞑想を自己作業とすることで、なにか自己変革、変容をつかみたいと思い関わることになったものにとって、麻原彰晃という人(修行の先生)の導きによって身体感覚的な大きな変化や神秘体験(様々なビジョンや光を見るといったようなこと)を体験したり、「自分のなにかをこのひとに見通されている」ような体験などを経験すれば「そのひとの導きの力」を信じてしまうことも納得がいくように思います。それは、そのこと自体は「嘘」とか「いんちき」といったようなこととは次元のちがうできごととして関わったひとの身の上には刻まれる。もちろん、うそでもインチキでもないのだと思います。

オウムに関わったひとたちと自分たちとなにが違うか、かわらないのか。紙一重でちかいところにいるかもしれないしそこの一歩の踏み越えは「宗教にはいる」といったようなこととしてではなくても、いつ自分たちがその足を越えてしまうかわからないようなことかもしれないと思います。(組織と私、や私のなかの本当の私などとのことを考えればどこにでもそのような一歩はありえるように思います。)

半端に内容についていろいろ知った風なことを言うような本ではないように思います。保身や自己弁護のために書かれた言葉の本ではないように思います。まして、売れるため、話題のためをねらって作られた本でもないと思います。是非先入観(は消えないけれど)を消して、いろいろな人に読んでもらいたい本だと思います。自分とは関係ないとか、自分は大丈夫だ、とかいった目ではいるのではなく、自分や身近なひとにも感じうるできごととして耳を傾けて欲しいと思います。

 (早川紀代秀被告は坂本弁護士一家殺害事件、信徒田口修二さん殺害事件の実行犯の方です。)

 ほかに読んでいるもの
 
 小西聖子「犯罪被害者の心の傷」(白水社)
  東京医科歯科大学で「犯罪被害者相談室」でカウンセリングをしている精神科医、小西聖子さんの本。よむべき本だと思います。

 山中康裕「こころと精神のはざまで」(金剛出版)
  精神科医としてはじまり、ユング心理学系の心理臨床家としての活動もされてきた山中康裕さんの「そのはざまで感じてきたこと」のについてのことば。今私には山中さんのいくつかの本からうけているものはなにか大切なもののような感じがあります。

「ハリール・ジブラーンの詩」

レバノン生まれの詩人ハリール・ジブラーンの詩を精神科医の神谷美恵子さんが訳し、詩編ごとに解説を付していく、といったスタイルで書かれた本です。
もともとはみすず書房刊の神谷美恵子著『うつわの歌』に所収されていたものですが、今は角川文庫版で「ハリール・ジブラーンの詩」のみ出ています。(『うつわの歌』は品切れ中だそうです)

1883年レバノンに生まれ、後にアメリカに住んだジブラーンはアラビア語だけでなく英語でも書いていたそうです。

澄みつつも強い凛とした言葉で、人の存在、自然のさまざまなものの存在について思いをめぐらし思索された詩。
小ささと、ひろがりとにつながる存在である人、人のいとなみのこと。

「病に」ではなく「そこに病める人」にひかれて医者になった神谷さんとの二人のあいだでの歌のやりとりのようにも思えることばです。

「立ちすがた」をおもわせるようなことば、詩だというようなイメージがうかびます。

春の広場で

仕事の後、今参加しているある公演の稽古時間まで間があったため近くの書店にでも寄ろうかと歩いていると、偶然も偶然、先日参加したワークショップの講師をされていたカールハインツ・ロッシュさんとばったり会いました。再見、再見。カールハインツさんはアンナ・ハルプリンのワークやフェルデンクライス・メソッドなどをベースにダンス、ワークショップ活動をされているドイツのダンサー、パフォーマーです。

「少し時間ある?」というので東京駅付近のあるビル前の広場のベンチで話したり(といっても私の英語力は???なので、あまりちゃんと疎通できなくて申し訳ないのですが)動いたり・・。彼が「こんな感じで動いてみて?」というのを、見よう見まねで動きと受ける質感をまねるように沿いながら追いかけます。やわらかでなおかつ、からだのなか、胸や腹部のスペースがふわっつと広がったり閉じたりするような動き方は自分ではまだあまり真似できないけれど、からだの中にこれだけ有機的な「スペース」があって、その「スペース」が膨らんだり閉じたりするようにからだをつかえるんだなと思わせてくれます。モダンダンスの「コントラクション」「リリース」といったような少し「ちからわざ」に思えるような胸の動きの気配ではなくてもっと「広がる」「膨らむ」というか、胸郭周りが「おおきい生き物」のような(変なたとえですが)感じを受けます。

街頭のベンチにすわってもぞもぞ動き続けてる(おまけにゆるみつつあくびしながらだったりするので)ドイツ人と日本人は見てると妙なとりあわせだったかもしれません。でも、ひとしきりり15分くらい(?)動いたあとは胸や背中、肩などがすこし「自分に近いもの」に感じられるようなそんな後味がのこりました。

スペシャル個人ワーク(?)を受けたみたいでたのしいひとときでした。

Home > 2005年04月

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。