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2005年03月

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花影抄/吉村浩美展「earth(つち)」

病み上がり、まだ喉は痛いままですが、友人に教えられて知った、根津のtea and gallery「花影抄」に行って来ました。次回展の「動物かるた展」に出品する友人に教えてもらいサイトを調べたら、今やっている(27日まで)吉村浩美さんの展覧会の紹介に惹かれ行って来ました。会場で伺ったら、吉村さんは群馬県在住のかただそうです。

指で触れている「たま」に注意がしんとむいている女の子の像、つくしのレリーフ・・・。奈良時代から伝わる仏像製作の技術「乾漆」という技法を使って作られた質感は陶器のような、もっとにおいのある土のような、土鈴のようなそんな質感の作品で、触りたくも叩いて音を聞きたくも、一応できないので・・・というような感じでした。

花影抄はギャラリーと喫茶室併設のお店で、おいしいお茶、和菓子中心のお店です。(ケーキもあるそうです)幾種類もの日本茶、中国茶、日本産の紅茶から選んで。少しさましたお湯で蒸らしていれられた日本茶はまろやかさ、甘さもおいしいお茶で、3~4杯いただけるなんて落ち着いてゆっくりするのにもいいときです。お店の方がとてもお茶が好きなのが伝わってくるようなお店です。

「Tea and Gallery 花影抄」のホームページです
吉村浩美さんの展覧会は3/27(日)までです。詳細はホームページを・・

腰からきた風邪

数日前から「きそうかな?」という予感はあったのですが火曜から久々にまともに風邪をひいてしまいました。まだ喉の違和感はつづいています。

熱が出だしたころ、からだのいろいろなところの間接が痛むことはよくあると思うのですが、今まで普通は「肩」や「脚」からくることが多かったのですが、今回は「え?腰痛」と勘違いするほど腰の鈍い痛みからきました。

「ちょっと腰が変だなあ」と思っていたら徐々に肩や脚の関節、筋肉に痛みが広がってきて・・・。まともに一日半床の中でした。腰から来たのは多分はじめてで・・・意外な感じでしたが。

腰からはじまったこととあわせて今回不思議だったのは、熱のせいか、足(Foot)が力がぬけてふにゃふにゃになったような、足の裏がとても疲れたような浮いたような変な感じになったのですが、足湯をしたらとても楽になりました。足湯おそるべし。足湯のあとは熱自体はあっても寒気は落ち着き・・・、という感じでした。

風邪とはいえ、そのつど違っていたりするものなのだなと・・。

メモランダム'05.3-1

1)もう大分経ってしまってからの、思い出して、の記事なのですが、先日上村松園、松篁、淳之の展覧会を友人と観に行きました。千葉佐倉にある川上記念美術館にて。上村松園は宮尾登美子の「序の舞」のモデルにもなっている日本画家で、松篁はその子供、淳之(あつし)は孫にあたる日本画家です。松園はいくつかの美人画などを本で見たことがあったのですが、松篁、淳之の画を見るのははじめてでした。

松園の「楊貴妃」(大正11)は楊貴妃とその髪を整えている侍女を題材とした画。衝立、人のいる空間、重ね着られた衣、御簾、外の庭、そしてそこから吹き込んでくる風の気配・・。何層にもわかれて、でも空気、陽の粒子は通り抜けていく幾層ものつながっている空間、陰。そして匂い立つようなひと、白い肌。髪。同じく展示されていたこの絵の下絵とともに息をのむようなものでした。優雅な気配の画のなかになにかせまる「精神力」のようなものが幾重にも折り畳まれているような。「花見」(明治43)もとても美しく、というか立ち上る「匂い」(白く、でも灰のように冷たさも感じるような肌からの・・・)のような感覚にとらわれます。当たり前ですが、印刷物でみるのと実際に目にするのとは全く違い(日本画は余計そうなのかもしれない、とも思いましたが)本物をみないと、と思いました。印刷されたものでみる「美しさ」と、肌合いの奥行きのようなものも感じるような「美しさ」とはやはり別のもので、『目で「触れる」』とでもいうような感じのようにも思います。

松園もすごかったのですが、自分の感覚的な部分にうったえてきたのは松篁のほうでした。ジャンル、題材というと「花鳥画」ということになるのでしょうが、描かれている花、鳥の美しさという以上に、ふっと浮力がはたらいた瞬間に今にも沈んでいきそうな、そしてこちらに倒れかかってきそうな、不思議な重力感覚、垂直感覚におそわれます。浮遊感と重力感の入れ替わる瞬間のような。感覚の平衡さがどこか狂う一瞬のような、コップに注がれた、表面張力で張っている水面がふわっと立てられた一瞬のような。浮き上がりつつあることと沈むことが同時に起きる瞬間のあわいのような・・。「春園鳥語」(昭和4)、「春雪」(昭和57)、「水温む」(昭和63)、「緋桃」(昭和45
)、「花」(昭和53)・・、と・・・。画集などで知るより先に実物で知ることができ、よい出会いだったと思います。

2)先週の「からだの作業場」ワークでのこと、です。

二人組で、一人がうつぶせになり声をだして、一人が背中e.t.c.をパーカッションのようにたたいたり揺すったりして緩めていく、というようなワークをよくやります。発声することによってからだに振動が起き、それと叩いてもらうことからくる振動が重なって、一人で緩めるのとはちがう感覚、体温も少し上がるようなそんな感覚を味わったりします。叩かれているところに声を響かせてみようとか、いろいろやっているなかでアプローチができてきます。

そのようなワークをしていて、ふとひらめき、やってみたことがあります。「声を出す」とき意識しないと(叩かれているポイントに声を響かそう、とはしても)発声元(?)は普通に「喉」からだったりします。それは当たり前かもしれません。声帯は喉にあるのだから。で、ここでちょっと考え方を変えて、声帯が胸、胸郭だとイメージしてみます。胸郭の中の空間全体が声帯だというような感じかもしれません。喉、頸部はただの息、声の「通り道」で・・。多分このくらいの感覚的変化は、イメージしてみれば「ふっ」と変わることができるようなくらいのことなのでは、と思います。

やってみると「大違い!」に驚くのでは、と思うのですが意識しないときと「胸郭声帯」のときと、上体全体の響き、「鳴り」が全くちがいます(笑)。「?!」というくらい。胸部の「空間」だけでなく、肋骨まで響いて振動しているのが感じられるのではないかと思います。

これはでも、「腹から声を出す」、「腹をつかって声を出す」というようなニュアンスでの「胸から声を出す」、というのとは違うことのように思います。「腹に力を」とか「腹に息をいれて」と同じような感じで「胸に力を」とか「胸に息をいれて」というのとは違って「発声震動元」(?)を胸空間にするというような感じなのですね、きっと。

これはもちろん人に叩いてもらってないでもできます(笑)。うつぶせのほうが床と肋骨が触れている分振動を感じやすく、つかみやすいかもしれません。でももちろんうつぶせでなくてもできるわけで、立っていて普通に話したり声を出したりというときでも少しとらえずらいかもしれないけれど、できるはずのこと、おきるはずの感覚だと思います。

笑む頬が歌う/笑む頬をからだにうつす

からだにのせてみる言葉です。

笑っているとき、微笑んでいるときの頬の皮膚の状態を観察してたり思い返したりしてみて、そのときの感覚、質感をからだのほかのところの皮膚にうつしてみる・・・。「力を抜こう」と意識的にしてみるのよりもふわっとした感覚を感じることができるかもしれません。

そこからひろがって、ですが、話すときや歌うとき「口で」、というよりも「頬で」、という感覚もあるのではと思います。頬で歌ってみる、頬で話してみる、というような。自分の「いること」があまりまえがかりにならないで、体温の空気のようなところにひろがりつつおさまっている、というような感覚があるかもしれません。

「置く」、「置かれる」

更新がまたあいてしまいました・・。

最近、気になって追いかけている感覚、言葉があります。それは「置く」です。

体を重力とつなげる、地面とつなげる・・、といったような感覚状態を探ったりするのに「地面に乗る」とか「地面を押して反作用をもらう」というような言葉、イメージを手がかりにすることなど、よくあるように思います。でも、「言葉」は難しく、同じ言葉でも、イメージされる感覚、状態、からだのつかわれかたは人によって様々に違っていたりします。それはとても面白い面でもあります。最近気がついたのですが、自分の場合は「地面に乗る」や「地面を押す」というよりも「地面に置く」「置かれている」というイメージをからだにのせてみるほうが地面にからだをあずけていたり、つながっていたり感覚をとらえやすいように思います。

歩くときなどに一足一足、「地面に足がしっかり置かれている」状態をつくってみるようにして歩いてみたりします。同じ歩くときでも、脚をとおして「股関節を地面に置く」という感じにしてみるのと、「足裏を地面にちゃんと置いていく」という感じにしてみるのとではまた違いがあって面白いです。実際に地面に触れていたり、間接面としての接点があるわけではないけれど、「骨盤底が地面に置かれている」というようなイメージで感覚を味わいながら歩いてみるのもできます。静かさと心地よさがなんとなくです感じられるような気がします。

床に寝て自分をあずけるようなときでも、「しっかり置かれている」という感じでアプローチしてみると、「脱力しよう」というアプローチで寝てみたときとまた感じが違って、「置かれている」とか「自分で自分の身を置く」というときのほうが充実感をもってゆるんで地面とつながっている感じを感じられるかもしれません。からだ全体を、というイメージもあるけれど、細かく分けて観ていったら足首、Footを置く、とか膝から先を・・、とか、腰椎を・・とか肩胛骨を・・とか胸骨を・・、等々、様々なことができます。自分のからだのどこが実際ゆるんでいないのかを確認していくいい作業にもなるように思います。

例えばお互いに触れてマッサージのように緩めていくときなども「触れる」や「圧す」といった捉え方よりも、「掌をちゃんと置く」というほうが自分のからだと相手のからだとのあいだにつながりを感じられたりすることもあるかもしれません。「触れて」はいるけど「置いて」はいなかった・・というような発見もあるかもしれません。

モダンダンスの稽古で

四月に、あるモダンダンス、バレエスタジオの発表会にゲストとして参加することになり、作品の練習に参加する日々が続いています。とはいっても、もちろん私はバレエやモダンダンステクニックを使って踊るような役、役割で参加しているのではないのですが・・。

自分がいままで直に触れた(といっても、実際は沢山は受けていないのですが)モダンダンス系統の体の使い方のレッスンはボディワーク関係で受けていた、宮崎祐子さんのエリック・ホーキンス・テクニックが中心でした。自分がそのまわりで感じていたことや、実際に昨年末に宮崎さんとの作業をする機会があり感じたことは、「表現する」ためのテクニックというよりも、エネルギーをからだのつくり(これも微妙な言い方なのですが)を利用して流して、外、内をつなげていくためのテクニックということのように思います。でも、それは、「からだを感じとる眼(視覚的にうつることにかぎらないのですが)」にはそれと見える、感じられる、とらえられるものでもあるのも事実で。だから、ある意味テクニックをちゃんとつかえない自分のような者でも「振り付け」を「やれる」こともあるのかもしれないのだろうなと思います。

今回参加している作品のスタジオの人たち、先生のサジェスチョンを見ていて感じることは、からだにのせるイメージや呼吸は「表現」のためなんだなということです。「そう見えるため」にどうするか、ということのためにイメージや呼吸を使う。自分としては親近感は、「表現」のため、というより、「つなげるため」、「つながってあるありかたのため」というほうに感じてしまいます。言葉としてはあまり違ってないように受け取られるかも知れませんが、自分にとってはかなり違うことなのです。見ていると、「動くことに、居ることがおいてけぼりをくっている」のにがんばって動いているような、そんな感じを受けてしまいます。

自分のからだを、(からだに、かな?)動きながら「たちどまりつつ」感じていること。言いかえたら、動きながら自分のからだを感覚に伴走しながらみていること、という感じかもしれません。そのように「感じつつあること」に伴走されたからだ、動きは質感の印象として「静か」である気配、「やわらか感」である気配を失わないように思います。それは「体が柔軟だ」とか「動ける」とかいうこととはちょっと、というか全然別のことで、どちらかというと「注意力の質」とからだとのことに近いような気がします。そう、見ていてうけるからだの印象のうちで、どうしてもお腹周りのあたたかさが違うのです。なんでしょうねえ・・。

昨年12月に参加した「星座の踊り」(ブログにも書いてましたが・・・)のときの自分や友人たちのことを思い出し、振り返り、そして自分の、「今、ひとのどういうありようをみると響くのか」(もちろん、私はいびつなものにも壊れるものにも自分の体がブレさせされて惹かれるという面も強くある人なのですが)というところをあらためて見る機会になっているような気がします。

 読んでいるもの、など・・・。
 「パルモア病院日記」(先の記事をご参照ください)をまだまだ、ゆっくり。

 買ったもの

 「大人の友情」河合隼雄著(朝日新聞社)
 「田辺元・野上弥生子往復書簡集」(岩波書店)

不勉強をさらすみたいですが、はじめて買った河合さんの本です。新刊のよう。書店で頁をめくって、即決。きっとこれは大事な本になる、と。
で、その本で触れてあったのが田辺元、野上弥生子さんの書簡集。これも即探して本屋を梯子して買いました。「思い」と「礼」と、という感じでしょうか・・・。

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