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2005年02月

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メモランダム

(1)Sanaさんのウェブログ「Silent Voices」の記事で知った、中平邦彦著「パルモア病院日記-三宅廉と二万人の赤ん坊たち-」(新潮文庫刊)を読んでいます。

日本ではじめて周産期医療を、産科から小児科へとつながって赤ちゃんをみていく病院をつくり道を切り開いていった三宅廉さんのことを書いたドキュメンタリーです。実は最近私は涙もろいのですが、本を読んでいて簡単に泣きそうになってしまいます。多田房代さんの「響きの器」もそうでしたが。実はこの「泣きそうになることに近い自分」があらわれてきたことはとてもうれしいことでもあって、ブロック・ガードのような何かがやっとはずれかけてきた実感があるように思えるのです。

というのは脱線で、この本も、描かれている三宅廉のすがたもとても読む者をうちます。生きていくこと、つよさ、自分のため、だれかのため・・・。ぜひご一読を。このように拓いてきた人はきっと知られるところ、知られないところでたくさんいて・・。きっかけをいただいた(いつも彼女の記事にはいろいろうけること多いのですが)Sanaさん、ありがとうございます。

胸部を「からだ」にかえす

からだにのせてみることばです。

ことばだけとるとおかしいのですが、(胸部、胸だってからだの一部なわけなので・・)「胸をからだにかえす」「胸がからだにかえる」ということば、感覚が今日沸いてきました。

自分の場合、上半身をつり上げるようにしてバランスをとっていて、足にちゃんと自分の重さをおろしていない感触があります。いってみれば、胸郭、胸部が「からだのふかみ」とつながっていなくて上に、そして前倒れ(?)になっているいような気がします。「胸をからだのふかみにかえす」という感覚を自分のうえに重ねてみると呼吸の拡がりが全く変わり、胸の中が涼しく通ってゆく感覚があります。そして呼吸感だけではなく、おなか、腹腔の「ここにいる感」(これも変なことばですが・・)も深くなります。呼吸とともに動いている腹腔のなかの感覚も実感されるというか・・。

「胸の存在を、からだのふかみに返す」。「胸の存在がからだのふかみにかえる」。ためしにどうぞ。

「陽の当たる場所から」から、「手」に

公演の本番と個人的な波もあり更新がのびてしまいました。

日比谷シャンテにアイスランド、フランス、ベルギー合作映画の「陽の当たる場所から」を観に行きました。監督はソルヴェイグ・アンスバックという、アイスランド出身、フランスでドキュメンタリー作品などをてがけていた方です。
フランス人の精神科医のコーラと、彼女の患者の、アイスランドから入ってきた「話すことのできない(話すことを閉ざした)」ロアの物語です。ことばを話そうとしないロアにコーラは、そばにいることによって、「私はあなたの『いること』を『聞いているよ』」ということを伝えようとする。そしてロアがことばで返してくれなくても「声を、ことばをかけつづけること」で「私はあなたの『いること』を大事に思っているよ」ということを伝えようとしているように思います。

そして最後、治療なかばでアイスランドに送還されたロアを、フランスに連れ帰り治療を続けさせようとしていたのがかなわずにあきらめたコーラに、アイスランドで家族のそばにいることを決めた(そのときでもまだ言葉をはなすことを閉ざしているように思うのですが)ロアが、家のまえの日溜まりでコーラの手に触れ握るシーン。ロアからコーラの掌を引きよせ、大事に触れて、コーラのもとに返します。ロアのほうがコーラに「信」を送って、伝えているような・・・。「大丈夫だからいいよ」とでもいうような・・。以前中井久夫さんの文章で「患者とながくいることよりも指を一本たててさらっと別れる方が患者に信をおくったことになることがある」というようなことを読んだことを思い出しました。

この映画を観てもそうですが、最近「触れること」「持つこと」について考えることが多いです。「重さの探検」と仮に言っているワークをしているときなど相手の腕や足への触れ方、持ち方の質感の違いで、相手の力の抜けやすさ、預けやすさがまったく変わります。(それは自分がやってもらうとわかりますね)。やわらかく、ふわりと持たれた方が逆に安心して自分の重さをあずけられなかったり、しっかりと思いぎゅっと掴まれると筋肉、エネルギーの通り道をブロックされて力をぬくことが全然できなくなることもあります。これは持つ方だけのことではなく、持たれる方のチャンネルの問題もあるでしょう。「持つ」ことのなかにも実は双方行のあいだのことがはいっているのだと思います。

そう考えてくると単純な「持つ」こと「触れる」ことのワーク、「持たれる」、「触れられる」ことのワークをじっくり時間をかけて追ってみるというのも非常におもしろく、深く、人を反映もするもののように思えます。

もっともらしいこと

今日(2/4)のニュースでアメリカ軍がイラク戦争などで兵士の犠牲を減らすために導入予定のロボット兵器のことをとりあげていました。もっともらしく報道官のような人が「米軍の兵士の犠牲を減らすため」と言っていました。アメリカの世論が兵士の犠牲が増えていくことで反戦に向きやすくなるからなのでしょう。

空爆も、ミサイルも化学兵器も核兵器も人を殺すためにあることには変わりはないでしょう。その意味ではどんな兵器も同じなのかもしれません。でもその映像を見ているときに信じがたいような違和感を覚えました。片方の側の実の安全のために小さいリモコン操作で動かされる、機銃を積んだ機械に、面と向かって人は撃たれるのかと。機械に殴り殺されるようなことと一緒ではないか。「こちら側の身の安全」とは何のことか。もはや戦争なのだからそれは感傷だなんて言われるかもしれないが銃を向けれられる側にだって尊厳はあるんだぜ。

地雷の犯罪性を言うなら、そして大量破壊兵器の有無(無かったらしいけど)に人道性や人の自由への抑圧を云々するなら、安全を保障されたところから「リモコン機械」で人を殺すのは根本的に人の尊厳を無視することではないのか。戦争なんだから、ゲリラなんだから、テロリスト(?)なんだから尊厳なんて問う必要はないなんて言うなよ。馬鹿も休み休み言え。

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