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2005年01月

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1/21WORK

1/21の「からだの作業場」ワークから。参加者は常連のねこみみさん、初参加のきょうさん、国江の面々でした。

きょうさん、初めてだったので、まずは受け手がうつ伏せになっての、二人組ボディ・パーカッション。声を出すこと、身体に触れ-触れられ、叩く-叩かれることで、具体的な感覚を持ちやすいと思って。
そのなかで生まれてきたイメージをひとつ。「背中の皮膚から背骨がぶら下がっている」ような感覚。背中の皮膚をテントに見立てたら、その天井から糸で背骨が(ということは背骨は梁ではないのですが)ぶら下げられているというような。どうしても自分も含めて背骨を背中に張り付けてしまいやすいような気がします。うつ伏せで背骨も重力にあずけたら、背骨は体内の海のなかをすこし沈んでいくんじゃないか(で、きっと振動で揺れもするのでは?)というのがイメージの始まり。そのバリエーションです。

次も背骨系。正座して頭の重さを感じながら、それによって、頸椎から背骨がひとつひとつ重さに引っ張られて傾いていく・・・。背骨に両サイドがあることをとらえてみたら、左に傾いていくときは椎骨のあいだの間接の右側の方がストレッチされ引っ張られていくはず。そんな感じを意識してみて。実際「真横」に曲げていくのは構造上きびしいのかもしれません、けっこうつらい(笑)。本当は少し前のほうがいいのかも。でも左右をやってみると自分が真っ直ぐだと思っていても左右の間の感覚的な違いや差のようなものを実感します。ねじれみたいなものとかも・・。左右だけでなく「前」に落とすというのもありますね。これも気持ちいい。頭の重さ感は左右よりクリアかもしれません。左右にしても前にしても背骨は傾いていくけれど、骨盤は重力方向をキープしているとストレッチ感が実感できます。

またしても背骨系(笑)。というか自分にとっての隠れテーマがそうだったのですね。今度はもっとシンプル。正座して頭の方から背骨を動かしていき徐々にその動きを腰椎、腰までつなげていくというもの。「下=腰」からだと勢いやうねりをつかってできやすいのですが、「上」からだと椎骨をひとつずつ積み上がった積み木のように感じられる状態をつくりながらでないと動きをつなげていくことができない。これも感覚的には面白いです。普通に直立している状態でも、微妙にどこか固めて調整をいれていて、背骨を背骨自体でちゃんと「受けて」いる状態になっていないんですね(いやいや、私は、ですが)。自分ではこの作業のあと、背骨が背骨自身を受けている感覚や、つながった背骨の質量のようなものを感じるような気がします。

次は立ち技(?)。両足を肩幅くらいに開いて前屈します。その状態から自分で両足をとおして地面に(重さとして、かな)繋がっていると実感がもてるところへそれぞれ調整します。自分の場合は普通に前屈するとかなり前につんのめった状態になります。そこからいちど感覚を探って自己調整。その状態がみえたら、そこから状態を左右に揺らせて振ります、ぶらぶらと。これも意識しないと、自分の場合は身体が向かう方向と逆の足もつられて浮いてしまったりするのですが、つられないように(とはいえ、固めてキープするのではなしに)意識します。軸足(胴体が向かう側の脚)を座骨からとらえて「支える」感じになって(とはいえ力まずに、)もう片側の脚の座骨との「距離が筋肉の網が拡がるように伸びていく」ような感じで、というのかしら。実際に骨格上の座骨間の距離が拡がるわけではないのですが感覚的には「伸びていく」に近いように思います。なにも意識しないでからだを揺らしたときにくらべて「ここにいる」実感とでもいうような感覚がはっきりします。結構、「ホント?」というくらい、違います。かかとから座骨までの皮膚を、「張力のあるひろいおおきな一枚のつながったもの」とイメージするとつかみやすそう。単純に脚の裏側のストレッチにもなります(笑)。

そして最後は、足踏みマッサージを。という2.5時間でした。


 読んだもの/読んでいるもの

山中康裕「老いの魂学(ソウロロギー)」(筑摩学芸文庫)
 最近連続して読んでいる山中さん(精神科医)の本です。老人慢性病棟での臨床経験などからの「いのち」、「魂」の見つめ直し、とりもどすことへのことば。どんなことが「人」のエネルギー(いきることへのあかるさ、のようななにか)を動かし流れさせるのかということを思います。

ロン・クルツ「ハコミ・メソッド」(春秋社)
 カウンセリング・スタイル(?)「ハコミ」についての、基礎的な考え方、アプローチ方などを書いています。私は「ハコミ」というのをこの本で初めて知りましたが、クライエントの「今」のあらわれを「からだ」にあらわれてくることを中心にどう見てとらえてアプローチしていくか、という部分で興味もあります。すこし「アメリカ」だなあ、というような感じも。「実験」というアプローチ(詳しくは本を・・)も私には微妙ですが・・。

リチャード・ゴードン「クォンタム・タッチ」(Voice)
 クォンタム・タッチという手技エネルギー療法についての本です。

メモランダム

1)以前神田橋條治さんの本を読んでから、「人の動物性の部分」というか、生命性のあらわれの部分に、見ている自分を重ねてみるみたいなことを少し探っています。「人の話す声」は「意味」を伝えるものでもあるけれど、人間の動物としての側面から見てみればまず「鳴き声」でもある、というような。同じように、意識ではそう感じてはいないかもしれないけれど、「こういう仕草」や「からだの質感の振る舞い」をからだの生命性の部分、「動物」の部分であらわれているようなこともきっと(というか実際数多く)あってそこを感じて、チューニングするように感覚を合わせてみたいというような。ときおり何かがみえる(合ってくる)感じが湧いてくるときがあります。

2)口唇のなかに空気の空間を感じる。また口唇まわりにあらわれている感覚、感情を、皮膚全体に着せてみるような・・。

3)またまた連続で山中康裕さんの本を。「絵本と童話のユング心理学」(ちくま学芸文庫)。絵本、童話、神話をユング心理学のアプローチで読んでいく、というか、それらを素材にユング心理学が浮かび上がるように読んでいくというものか・・。とても丁寧に説かれる「大切であろうもの」を巡ってのことば。

ろうそくの距離の音楽

西荻窪の「音や金時」というライブハウス(ネパール料理のお店でもあります)へ。西洋中世の音楽、歌のコンサート。近藤治夫さん(バグパイプ、ハーディーガーディー、他)、渋川美香里さん(ハープ、歌、ハンドドラム)、辻康介さん(歌)のトリオのライブです。渋川さんが以前宮崎祐子さんのボディワークのレッスン仲間だった関係で知ったコンサート。渋川さんは現在イタリア、ミラノでハープ(オーケストラなんかで見る「ハープ」というより「竪琴」といったイメージの方が近いかも)、中世の歌を勉強、演奏活動をしている方です。

第二部での、ある王様が集めた「聖母マリアを称える曲集」からの歌が面白い。本当は400曲くらいある曲集のようです。マリア様を称えているのだけれど、歌詞(ストーリー)のなかが生活的な教訓譚になっていたりする。「聖母マリアが怒る」ような(ほとんど嫉妬みたいに)内容のものなんかもあって・・・。歌詞を説明しながら歌っていくスタイルで今回やっていて、笑いを誘う。

楽器の音、発声法が「遠くに」という感じよりもその場の周りに響かせるような感じの「音」のように感じる。聴いて勝手に思っただけなので音楽史的に、また音楽民俗学的には間違っているかもしれませんが、前提とされている空間(その音楽が聴かれる空間)が「ろうそくの明かりのとどく距離感」、「ろうそくの明かりを囲む距離感」のようなものなのかしらと思った。間違っているかもしれませんよ(笑)。

子守歌の向かう距離感、空間の包み方(『手元が揺りかご』みたいな)よりは広く、「舞台上からの音楽」よりは「丸く」近く包まれているようなそんな距離感。きっとライブハウスではなく教会か、門の前なんかで囲んで聴けたらいいような。

いくつか、ひかれる言葉を引いて・・。

「私は精神療法家というものは、いわば傷つき悩むクライエントにとって最後の『自由』を守る空間と時間を保障する人間の一人なのだ、と思っています。この彼らの『自由』を守る空間と時間の保障、ということこそ、私の言う『専門性』の一つなのであり、彼らにとって、自らが立ち直っていくために、最も必要なことなのであって、ここには日常的な時間や空間との差が歴然と認められると言って過言ではありません。」

「夢はいつでも心の秘密の宝石です」

「少年期の心」(山中康裕著)

中井久夫さんからつながって何人かの精神科医、心理臨床家の方の本をずっと読み続けているわけですが、そのなかで、どんどん「自分にとって必要な本」、「しごと」に会っていっているように思います。山中康裕さんの本もそうです。山中さんは芸術療法、表現療法、箱庭療法(箱庭療法を日本に紹介育てられたのは河合隼雄さんだそうです)等をクライエントさんたちとの関わりの中で臨床、治療に取り入れ深く展開されてこられています。

「少年期の心-精神療法を通してみた影-」(中公新書)。1978年の初版からずっと版を重ねつづけています。

この本を読んでいて、箱庭に向いていく子供や手紙、絵を描くことに向かう子供たちの過程に触れて、自分のこどものころの「こころのエネルギー」というようなものの「イメージの弾み」みたいなものを思い出します。

ここに登場されているこどもたち(ひょっとしたら世代的には自分とかさなるくらいのひとたちかもしれない)の実際の生活のなかでの「うまくいかなさ」、「かかえきれずに『からだ』や『行動』に出口をみつけようとしないといれないエネルギー」を、彼らは診察室、治療室という「自由」と「秘密」が保証された「かかわり空間」のなかで、箱庭やその他の表現媒体、そこの中に(なにかに向けて)表すということのうちに自分の存在を「くぐらせる」(いい言葉がみつからないのですが・・)ことで、自分の生きづらさ、処理できていないこと、葛藤といったさまざまなことをもう一度自分のほうに受け止め、生きなおして、存在のうちにおさめていくように思います。子供たちはそこで外に適うように矯正されるのではなく、自分で「治って」いく。立てるように自分で生きなおしているように感じられます。とくにまだ小さい子供たちの箱庭の様子は、物語、イメージを自分で生きるような(きっと子供時代にみな感じていたことかもしれない)そして自分で自分をどこかへ準備していくような力みたいなものを感じます。(きっと読んだ人にも沸き上がってくるものとして・・)。

「症例報告」というよりもなにかほかのものとして、読んだ人のこどものころのイメージや感覚に響くものとしてとどくもののように思います。

まっすぐとたてとゆれる歌(1/10、タテタカコさんライブ)

快晴の空のもと、武蔵野線を経由して吉祥寺へ。実は心待ちにしていたタテタカコさんのワンマンライブ。Star Pine's Cafeにて。12月のライブを見に行くことができなかったので、久しぶり。開演30分くらい前に着いたのだけど、すでにほぼ満席状態。最後列端に空席があったのでそこに。「ライブハウス」ですが、客層がひろい。映画を観て、という方が多いのでしょう、50代くらいの夫婦さんとか、小学生高学年くらいのお子さんを連れた方とかも。
アルバム「そら」からの曲の他、2月23日発売予定のあたらしいアルバムからの曲も、という構成のようです。

いつも感じることなのだけれど、というかその感じにひかれて足を運んでいるのだけれど、「歌いだすととても地に足がつく」ような、そして、「まっすぐそこに声と自分を立てようとする」気配を感じる。MCをいれない曲間でも、一曲一曲歌うまえに自分の息と「いること」を整えて、「思い決めて」から息を吸い込んで歌い出す。だから曲の間が妙な間で少しあくのだけれど(笑)、でも観ている人は(というか僕は、かしら)そのときの気配の様子をも「包んでいく」ように見ているのではないかな、と思う。観客は、タテさんの歌いかけてくるの聞いているのだけれど、同時にタテさんを見守っているのにも近いような、不思議な気配もあるような感じもするステージ・・・。

以前みたライブの時よりも、演奏の「呼吸」感が「おおきい息」へと変わってきているような印象を感じます。ピアノの間奏の「波」やそのときのからだの印象が「おおきい息」にのせてすこし揺れるような感じを受けて、今「かわっていくとき」なのかもしれないと思う。「音に合わせて『のって』動く」というのとすこし違って、「歌う自分の歌う空気を、(間奏のときや歌のフレーズのうつるときなどに)自分の揺りかごでゆらしている」というような感じかもしれないと・・。

からだとこえを立てて、まっすぐの線としてここから向こうへ歌おうとする人。地に足をつけた自分でいたいと、そのときの「一度」を歌おうとしてる人のように感じます。

ライブの後半、曲名が分からないのですが「ここには あなたがいて とりとめのないはなしをするでしょう どうしても越えられない海のおおきさについて・・・」(ライブでの聞き覚えなので間違っているかも)の歌い出しではじまる歌での、会場が「ひとつ」(盛り上がって発散して一体感になっているのとは全く違う)になっている空気は、とても澄んだ線がタテさんからも観客から発せられていて、交差してその向こうへとのびていくような、そんな「ひろがる静かさ」に充ちた空気でした。

「脳の脱力」(1/7WORK)

今年初めての「からだの作業場」ワークです。参加者は常連中国武術さんと踊り、演劇をやってらっしゃる佐々木さん。そして国江です。

二人組で、お互いの骨格を触れて形を意識させてあげることから。眼窩、顎、乳様突起(耳の後ろのでっぱり)頸椎、肩胛帯(鎖骨、肩胛骨、上腕)背骨を降りてきて腸骨、仙骨、座骨まで。途中で鎖骨と肩胛骨両方触れてあげてる状態で肩を持ち上げてから力を抜いて落としてもらう。腕の骨格構造を感じてもらう。

次に、正座の状態で頭の重さを利用して(頭を傾けるとこから始めて)背骨を左右、前に一個ずつ力を抜いて引っ張られるように傾けていく。くねくね動く細かいパーツに別れた蛇のおもちゃのように椎骨の一つ一つが別れているイメージを持てば、左に傾けられていくときは椎骨と椎骨の間の間接の右がわが伸ばされストレッチされていくはず。逆もまたしかり。やってみると静かな運動?のわりに「効き」ます、で左右の感覚がかなり違っていたりする。左右差、ねじれなど感じられるかもしれません。

次は難題?のチューニング。相手の身体に触れ、相手の身体から感じられる「波」(呼吸や血流などで生まれている、皮膚をとおして感じられる律動感のようなもの)と自分側の「波」とが感覚的に重なっていく、混ざっていく、皮膚をとおして双方の波がつながった「やりとり」に感じられるところを「聴いて」みるというような。「自分の手どうし」、「自分の手と足」でだったら波の混ざる感覚は割とつかめそうな感じがします。他のひとの皮膚をとおしてでもそれを感じられるような気がするときもあります。言葉で説明しずらく上手く行かないのですが・・・。決して圧さず、皮膚を合わせるだけで、しだいに皮膚で感じるのではなく「間に皮膚はない」ようなイメージに感覚を寄せていって・・・。

次がメインの「重さの探検」。二人組で一人が仰向けで脚や腕を相手に持ってもらい力を抜いて重さを感じつつ、相手に預けていきます。これは今までもよくやっていたのですが今回は受け手のアプローチを変えて「自分の力を抜こう」というアプローチではなく「持ってくれているパートナーの掌を一番ちゃんと感じられるように」というアプローチで受けてみるという感じで。実は想像してみればなるほど、ですが、力を抜いて相手にゆだねてあれば、相手の持ってくれている掌の接触感を「やわらかく、しっかり重なって、少し深さも内包してあるような」ものとして感じられるのではないかしらと。「自分からの自分のからだの脱力」というよりも下手したら(?)実感があり、つかみやすいかもしれません。意識が「自分」だけに向かず「相手」や「鉛直」にも自然向く、ということは受け入れようとして自分をシフトしてみないと変化できないということで、「力を抜こう」というアプローチよりも「つながり実感」のようなものを媒介にするからかもしれません。もちろんサポート役も大切で、受け手が「手」を受け入れやすく感じられるために自分のほうの持ち方をいろいろ観察しないとならないということも。サポート役にとっても「鉛直」や「相手の質感を一番感じられるには?」ということをとらえ続けるアプローチがつづきます。相互ですね。

実はあたまを預けるのは人によっては(私も)難しくどうしても頭か、首かをどこかでブロックしてたりしやすいものです。でイメージひとつ。頭蓋骨のなかで「脳を脱力させてみる」です(笑)。

自分にはこれは有効です(笑)。中国武術さんもそのとき一言「頭って本当の大きさの割に、もっと大きく感じてるものだよね」と。そうそう、それは私も感じます。国江実感的には、「脳の脱力」をイメージするとそのときはふっと頭蓋骨本来の大きさ、容積の中に意識、あたまがコンパクトに「おさまって」静かな感じになるような気がします。脳が頭蓋骨のなかで冷んやり静かに呼吸しているような、脳自体の重さも感じられるような(イメージだけかもしれませんが)そんな感じが起きてきます。


:読んだもの・読んでいるもの
山中康裕著「臨床ユング心理学入門」(PHP新書)
ユング心理学入門でもありますが、それよりも山中康裕さん本人の精神科医、臨床心理士としての考え方、立場、臨床姿勢を丁寧に説いた本でもあります。「からだ」を考えるひとにも響くはずの、臨床から育まれたことばたち。

同じく山中康裕著「少年期の心」(中公新書)
1978年初版の、子供たちの臨床記録。子供達の治療記録であるけれども、それは山中さん自身が子供達との関わりのなかで子供の生きる力にきづかされていく過程でもあり、「治療」ってなあに?ということを考えさせるものでもあります。

「こころ」という皮膚

「こころ」ってからだの中にあるもの、脳のなかにあるものって気がするけど、ほんとにそうなのかな?

どうなんだろうね。なんか僕は「こころ」って皮膚のまわりにあるような感じもするんだよね。皮膚も「薄皮一枚」みたいなものじゃなくてさ、なんか「膨らみ」のあるもののような気もしてね。

へえ?それってどんな感じなの?

皮膚も身体の外側をぴったり包んでるっていう感じじゃなくてね、空気みたいな感じでふわっと間にあって、なんとなく「こころ」ってそこにあるっていうか、「そこで」あるっていうのかな、上手く言えないんだけどね。

ふうん・・

皮膚もね、なんか筋肉みたいに、でもふんわり、でもあるんだけど、「皮」っていうより厚みをもってるもののような感じがするんだ、そんな感じってない?

そういわれてみるとそうイメージしてみることもできそうね。

たとえばさ、「力を脱いて」って言われると普通筋肉をゆるめたりしようとすると思うんだ。でも、「皮膚の力を抜いてみる」っていうのもあるよね。

えっ?

うん、僕はあるよ。「皮膚をゆるめてみる」っていうふうに感じてみたときのほうが抜けていくときとかね。

へえ、でもそうしてみるとなにか印象が変わるね。なんか落ち着いて見えるね。やっぱり「こころ」でもあるのかな・・・・。

最近読んでいるもの。

少しまえの記事(ChannnelとTuning)の本の著者、山中康裕さんの著作集の「たましいと癒し」(岩崎学術出版社)を。
こころとからだについての臨床体験からの考察や、冒頭の「セロ弾きのゴーシュ」をカウンセラーの「成熟」に引き寄せて読んでいく論文など引きつけられます。治癒力や自分であることの発露があらわれてくるための地ならしとしての時間、関わり、空間のこと、考えさせられます。

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