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2004年12月

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ChannelとTuning

決して心理臨床書籍紹介ブログではないんですが、どうも紹介したい本に会ってしまいます。別に変に「こころ」側から「からだのいること」をみようとして、そういう本をさがしているわけではないのです。自分がワークや日常のなかでからだについて考えること、おもうこと、そしてからだやそのひとを「みよう」とするときについてくる「感じ手」の側のことと、臨床家の状態とがつながって感じられることが多いのです。

山中康裕さん(精神科医、臨床心理士)の「こころに添う-セラピスト原論-」(金剛出版)を書店で見ていたら、「Channel」と「Tuning in」という言葉がとびこんできました。「チャンネル」は「窓」のことで「チューニング・イン」は「同調」のことのようです。必ずしも同じニュアンスではないのだと思いますが、(対象もちがうし)自分でもからだのことを考えるとき「Channel」と「Tuning」ということばで考えるところがあります。

山中さんにとっての「窓」と「同調」は本の方を。自分にとっては「チャンネル」は踊る際には外側、環境、時間、ひとのからだ・・といった多くの「線」への注意(注気?かもしれません)の窓でもあり、ワークや一人での、からだの状態に何かアプローチをかけるようなときには、手がかりになるイメージやことばであることもあります。「からだにのせてみることば」は「からだにのせてみるチャンネル」の入り口でもあります。

「Tuning」について思うのは、足踏みマッサージのようなことや、からだの重さを預けてみるようなことをする場合に「受け手」側の「からだ」がその「刺激」や「はたらきかけ」、「触れられ方の質」を感じ取り受け止め、その感覚を自分のからだのなかにいれることで、からだの中で一度フィードバックさせて窓を合わせられるようになるとチューニングが開けるための回路が開く・・、というような感じなんだと思います。そこで大切なのはそれは双方のできごとであること。そして、フィードバックできてチューニングのための何かが開くにはそのための味わう「時間」、そのからだ、ひとがフィードバックできるための「時間」が必要なんだということです。その時間をたもつこと。待てること。それは「みとめること」であるのかもしれません。「受け上手」や「サポート上手(変な言葉ですが)」であるためには自分の側と相手の側の両方の「その間の時間」を聴けること、聴こうとしていれることが大事なんじゃないかと思います。

山中さんの本からはなれてしまいましたが、まだ途中なのですが、謙虚さのなか(私などが「謙虚さ」というような風にいってしまうような方ではないのですが)、とてもひかれることが書いてあります。絵画療法をはじめたときのこと(患者ひとりひとりに彼らがしたいことを聞いてまわり、ある患者の『自分の手で、これをしたのだ、と言えることがしたい』という言葉にヒントを得たということ)や、「片足は水に浸けるが、もう一方の足は岸に定位していること」というスタンス・・。そして、座談会の、「臨床に疲れた心理臨床家のために」等々。

気になるかたは是非どうぞ。

「聴覚障害者の心理臨床」2

まだまだ読み中の、「聴覚障害者の心理臨床」です。

この本の中にはいくつも引かれる、そして、気づかされる文章があります。
河崎佳子さんの「聴こえる親と聴こえない子」もそのひとつです。

発達過程をふまえての「ことば」の大切さ、「人と関われる能力の発達」の大切さ。

『子供たちに、「あなたの自由な表現が待たれているのよ」「あなたの体験、あなたの考えを語ってちょうだい」「あなたの感じたことを伝えてほしいの」という期待を向けるときにこそ、ことばはいきいきとしたコミュニケーション手段として生まれてきます。』

「聴こえる」ということを「聴こえていない側」は体験していないし、「聴こえない」ということを「聴こえる側」も体験していない。どんなに違った体験をし、違った文化に生きているか、それを知って初めてきこえない人たちは健聴者に対して自分の「聴こえ」をどう説明し、理解にむけてどんな援助や協力がほしいのかを「ことば」にすることができるのでは・・・、というようなことを河崎さんは書いています。

この言葉を読んで、少し前にニキ・リンコさんと藤家寛子さんの対談集や、藤家さんの本を読んで触れた自閉症スペクトラムの人たちの感覚、生きづらさのようなところと重なるような気がしました。実際の障碍の質、内容はちがうけれど、健聴者、定型発達の人たちの身体感覚文化(適切な言葉か分かりませんが・・・)と異なった文化、体験文化のようなものがあって、お互いが他の文化の感覚を知らず、みんなこういう感じなのでは、と思ってしまっているものが互いのうちにあって・・・。そのかかわりのなかでは、「こう伝えたい」ということを思って「ことば」を出すということすら「保証」(それとみとめて存在を待ってもらえることでもあるかと思いますが)されていないような感覚になってしまうのではと思います。それは相互のコミュニケーションの問題でもあることなので、「聴こえない側」だけではなく「聴こえる側」の人にとっても関わりの中で同じように「うけとめられてない」という齟齬感はあるのでしょう。双方の側が「ちがい」の体験の質を受けとめあうことから、測りあうことがはじめられ、何かになっていく・・。そしてそのおおもとには、存在をみとめてもらえて、コミュニケートしようとしてうまれてこようとしているものが「かたち」になることができる「とき」を共有してもらえる「空間」=「空気」=「関係」のようなものが「肌合い」としてそこにあって・・・。

河崎さんの文章から、もうひとつ、です。ある意味シンプルでベーシックなことであるはずなのに振り返ってみたら?というようなことが書かれてあるように思います。

『私が手話講座に通い始めた時、初日の授業は「ジェスチャー・ゲーム」から始まりました。聴こえない人に何かを伝えようとする時、自然な行為は身体をコミュニケーション媒体として使うことです。そこから手話が生まれたのだということを、ジェスチャー・ゲームは教えてくれました。手の動きという「記号」を日本語の文章にのせるのではなく、伝えたいという思いを身体にのせて表現するのだという気づきは、その後、聴覚障害者の心理臨床を勧めてくるなかで、私にとって一つの基本理念になっています。私にとっての「ジェスチャー・ゲーム」のような体験こそ、子供の失聴年齢や失聴程度のいかんにかかわらず、母親に対してなされるべき援助の第一歩だと思うのです。』

このことは、決して「表現を身体にのせて」ということではなく、『「わたしのからだ」は今どういうふうにしてそこにいるの?』ということにもつながっていることのように思います。

「聴覚障害者の心理臨床」

本当に久しぶりの更新になってしまいました。
12/3の宮崎祐子さんの国立音楽大学でのパフォーマンスへの参加、そして、12/6、7の木村由さん(ダンス)・長久保涼子さん(写真)とのコラボレーションの会。そして自分のワークや友人の公演の照明。平均睡眠3~4時間のなかでとてもとても、という感じでした。

二つのパフォーマンスは自分のなかで新しい発見や、今の自分への様々な確認のときでもありました。いずれ書いてみたいと思います。

今、村瀬嘉代子さん編の「聴覚障害者の心理臨床」(日本評論社刊)を読んでいます。聴覚障害は「聞こえ」の障害であるだけではなく、なによりも「コミュニケーションの障害」としてたちあらわれてくるものだということを、実際の事例、試みの報告で気づかせてくれます。

「見えないことと聞こえないこと、どちらかの障害をなくせるとしたら、あなたはどちらを選びますか」と聞かれたヘレン・ケラーは即座に「聞こえないことを」と、答えたそうです。ヘレン・ケラーと同じような障害のある福島智さん(9歳で失明し、17歳の時に失聴された)という金沢大学の助教授の方は「・・・耳が聞こえなくなったあとは本当に独りぼっちになったような気がしました。・・・夕陽が見えないとか、星空が見えないとか、自動車が運転できないとか、そんなことはたいした問題じゃないんですよね。一番大事なのは、他の人とコミュニケーションできなくなったこと、それがものすごくつらい。逆に言うと他のすべてが絶たれてもコミュニケーションできるということ、話し相手がいるということ、それがあれば生きていけるんだなあと感じたんです」と言われています。(本書所収の木島照夫さんの文章より引用です)

生まれたときから失聴されていた人、聞こえていた時があったひと、そしてまたろう学校や、ろう者社会のなかで手話という「ことば」を得ている人、家庭、家族のなかでは手話をほとんどつかうことができなくて家族と「ことばのかかわり」を共有することが少なかった人、手話という「ことば」を禁じられて触れることが出来なかった人、そして聴覚障害者老人ホームでの、就学経験がなくて手話を収得していない「ろう」の入所者と手話で会話をコミュニケートする「ろう」の入所者の間のかかわりの「溝」。本当に様々な個別の状況で違う状態のようです。そして心理援助者、臨床の現場では「コミュニケーション」の障害であるという側面によって、双方とも疎外感を感じることがあったり・・・・。「ろう者自身による精神・心理療法も必要なのでは・・・でもろう者が医師や心理士になる道は閉ざされている」(片倉和彦さんの文章より)

心理臨床や福祉といったようなことに興味を持っている人だけではなく、様々な人が読んで、「実際にあること」に触れてほしい本だと思います。

聴覚障害者心理臨床

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