Home > 2004年11月

2004年11月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • Comments (Close): -
  • TrackBack (Close): -

知らない、想像されていない「普通」の世界(『自閉っ子、こういう風にできてます』)

「めめ」さんという方のやってらっしゃるブログ、「きらきらぐるぐる」の中で紹介されていて知った「自閉っ子、こういう風にできてます」(花風社刊)という本があります。昨日その本のことを知り、今日は即本屋へ直行(仕事場の近くに大書店があるのはこういうとき便利です)。ひきこまれて読んでいます。

ニキ・リンコさん(翻訳家)と藤家寛子さん(作家)の対談なのですが、お二人ともアスペルガー症候群という自閉症スペクトラムの方です。対談というか、鼎談に近いかも。出版者、編集者の浅見淳子さんの聞き手、リード役の絶妙さもあり、私には「?!」ということの連続の世界が展開されます。私は恥ずかしながら発達障害関係の知識はまったく無いのですが、何も知らない人(関わりをもっていなかったひと)が「自閉症」という言葉からなんとなくイメージしてしまうような世界像、感覚世界からは想像もつかないような感覚のフィールドがそこに繰り広げられています。

たとえば、

 「雨が痛い」(ニキさん)

 「コタツも、脚がなくなってこわいですよね」(ニキさん)

 「(コタツ布団を)めくって脚の位置を確かめないと立てないですよね」(藤家さん)

 「(ピーマンとかトマトとかどこから見ても色が同じものは)脳が酸欠起こしそうなほど気持ち悪かったです」(藤家さん)

自閉は「心の病気」といったものではなくて、「先天的な脳のつくりの違い」だとニキさんは言われています。ということは当然というか、付随して、ですが、身体機能がいわゆる一般(本の中では『定型発達』と言われていますが)の感覚とは違ってとらえられているということなのだと思います。定型発達の人には想像しにくく、またニキさん、藤家さんの主観からいえば「この身体がふつうだと思っていたので、定型発達の人たちがそれほどラクをしているとは想像していませんでした」ということになるのでしょう。

世界のうけとりかたのパターンの組まれ方がさいしょから「ちがって」いるのだということを握手のようにもっていることができたら、それと知らずに傷つけたり、決めつけたりということが少なくなっていくのかなと思います。「ふつう」はそれぞれのひとに、深くひろがっているものだと。

メモランダム

1)先日のタテタカコさんのライブの後、もう何年も前に見たあるライブのことを思い出してしまいました。それはブラジルのパーカッション奏者、ナナ・ヴァスコンセロス(Nana Vasconcelos)のライブです。確か、矢野顕子、ビル・フリゼール(Bill Frisell)とのライブの企画(Music Todayじゃなかったかしら・・・?)で昭和女子大人見記念講堂か、文化村か、でやったものだったと思います。

ナナはタブラ、ゴング、ビリンバウといったパーカッションを叩きながら歌う(?)というか「声を歌う」というような感じのパーカッション奏者。動きながら歌い、叩きます。ブラジルの深い森の人。「森に降りてきた人」。「Air」と交信しているような人。セッションミュージシャンとしてもアート・リンゼイ(Arto Lindsay)のアルバムなどのほか様々な作品に参加している人です。

普通に考えたらタテさんとは全然違うタイプのミュージシャンなのですが、タテさんのライブをみたときの感覚と、ナナのライブを見ていたときに受けた感覚とつながるところがあったんだろうと思います。誤解をおそれずにいうと、少し「神々しさ」にちかいような感覚を受けたのだと思います。(タテさんという方や、パフォーマンスが「神々しい」というのとは違う感じだと思うのですが・・。)「神々しい」というのもいい言葉ではないのだけれど、「真っ直ぐに声、歌を空間に届ける姿に、そのとき余分なことがなにもない」(本人的にどうかなのかは、きっとそんなことないんだろうと思うのですが)というありかたと、同時になにかがふっと漲って(これも微妙なことばですね・・)そとに出ていく感じ(そしてそれが自然な感じなこと)がするという質がそう感じさせるものだったんじゃないかと思います。押し出すように主張して出されていくのではないけれど、静かな感じの「たしかなつよさ」みたいななにかがこうまっすぐひろがって行く感じ・・・。タテさんのライブは三回目だったのだけど、そんな歌ってる存在感から「神々しさ」みたいなものを感じたのは先日の会がはじめてでした。歌っているときの「いずまい」のなにかが、タテさんとナナ・ヴァスコンセロスと近い感じがしてつながったのかなと、思います。そのときの「いること」が「主張」のような感じとはちがうところで、その空間、時に「届ける」ということにつながっていること。その受けた感覚が近かったのかもしれません。

2)どうしても目がはなせないもの。東京駅で仕事をしていると(もちろん他の場所でもたくさん目に入ってくるのだけれど)一日に何人(何組?)もの「手をひく人」や「車椅子に乗っているひとと共にいるひと」に出会います。歩くのが大変になっているパートナーやご両親を支えたり、障害のある子供の手をふっと何かを伝えるように握るお母さんとか、「一緒にあるくからだ(ひと)」、「となりにいるよ、というからだ(ひと)」とか。知らず知らずに選んで、であったり、注意深くみまもりつつという意識であったり、というところからの、合わせていく、添わせていくからだのリズム。呼吸や歩調。気持ちがつくるもの。そして「伝えよう」「伝わるよう」として、あること。目にみえるように、見せるように、という意味ではないけれど、きっと「表現している」というようなこと。

11/10・タテタカコさんライブ

11/10、タテタカコさんのライブ下北沢CLUB Queにて。対バンはカンパネルラ、サンプリング・サン、HARCOというプログラムでした。

自分にとっては三回目のタテさんのライブでした。東京でのライブに連続なのでこれではほとんど追っかけ状態(笑)。カンパネルラ、サンプリング・サンと続いたロックバンドの演奏のあと、ひとりで歌うタテさんのステージは観客のからだの感覚のどこかに重なりやすかったのか、会場には歌うタテさんの集中力から流れ出てくる気配と、観客の方にも自然になにか凛とした張りつめた気配もあって、とても「ひとつの空間」になっていたように思います。集中の感じの行き交う質がその時間を、ひとときをとても密度のある「とき」にかえる。とてもいいライブの時間だったと思います。

やはり、歌っているときの真っ直ぐさ(気持ちもそうなのだろうけれど、それ以上にからだからうける感じがそうなのですが)、立っていくような感じがとてもひかれる。見てるときにこちらにもなにかがうつるのか、背筋と呼吸をあわせるような、縦むき感覚(?)になりながら聴いて、見ています。今日は今までStar Pine's Cafeでみていた感じと別の緊張感をもっているような感じ(そんなことないのかもしれないのだけれど)のように思えて、おだやかだけれどもとても「強さ」を「投げている」ような感じがしてよかったです。自分で自分をたてていく気持ち。歌の声。

「秘密の物語」「雪と月と君と僕」(曲名ききとり違えているかもしれません)などとてもよいときでした。

骨のなかの空気芯

ワークの中で発見しておもしろく、自分でいろいろ探ってみている感覚があります。

「仰向けになって身体の力を抜いてみて」というのはよくやったりすることだと思いますが、そのときにいろいろなその人たちによっていろいろな捉え方、アプローチのしかたがあるように思います。腕、脚といった大きいもの全体としてイメージしてみたり、皮膚が地面に溶けていくというのもあるだろうし、物理的に「~筋」をゆるめるというイメージのほうがとらえやすい人もあるかもしれません。「死体」になるというのもあるかも・・・、とか本当に様々だと思います。

最近自分が発見したのは、「骨の中がパイプのように中空になっていて、そのなかに空気の芯があり、その空気が重くなる」というもの。自分にとっては腕や脚が静かに重くなっていく感覚があります。「骨の重さを感じよう」といったイメージのときとはまた違って、何か、骨自体も脱力(?)していくような(そんな事はないんだろうけど)感覚がほのかに開きます。これは10月の末のワークで、常連の「中国武術さん」とのやりとりのなかでみえてきたもの。感謝です。

他にもいろいろ最近のイメージを・・・。

「座骨の間に胸がすわる」
「恥骨から歩いてみる」(意識していなかった腹筋を使ったりするかもしれません)
「二点で止まった仙骨底=お皿を傾けたりまわしてみたりする」(これもこんなところが動いてる?、みたいなところを使う感覚があるかもしれません)

興味をもたれたら是非どうぞ。遊んでみてください。

Home > 2004年11月

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。