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2004年10月

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仙骨底を意識して(骨遊び)

今朝、ふと、電車のなかで「仙骨底」をひとつの平面として意識してみようと思いつく。
きっかけは、練習しているある振り付け。どうもうまくすっきりできないので。

普通に真っ直ぐな状態で立ったり座ったりしているときは水平なお皿のように、左右均等にあるはず。そして左右側も同じようにそれの重さのような実感があるはず。左右にかたむいている状態だったら、シーソーのように(といっても、真ん中に支点があるわけではなく、左右の股関節や仙腸間接がずれてすべるような感じになることが支点になるのかなとイメージするのだけれど)なっているのをイメージしてとらえてみる。でも大事なことは、それ(仙骨底)が「一つのものである」という実感をはずさないように感じ、とらえつづけていることのよう。

そうすると背骨がつながっている感じがなんとなく実感されやすいような気がします。また、仙骨底を感じてゆるんだ瞬間「来た?」という感じで、くしゃみを連発する。だいたいこういう反応につながるときはなにかからだの止めてるものをはずす方向があるのかなと思います。

骨盤、仙腸間接あたりをつめていると、仙骨底を「面」のようなものとして実感できなさそう。また、仙骨底の輪郭、左右辺?をとらえてみるのと同じように、一つ一つの背骨のパーツ(椎骨)の左側右側をとらえてみることもあるんだなと思う。それを胸椎の上の方までつなげて意識してみると、からだの中を、仙腸間接、仙骨底から胸椎までがすべりずれながら、その骨の重さで(あまり力によらないで)波のように揺れて泳がされているような感じが生まれます。静かな、落ちついた感覚です。

その延長で、仙骨底を丸い円盤のようにイメージしてみたら、傾けすべらすだけではなくらせんに動きがつながりそう。「背骨泳がせ遊び」の感覚なかにいろいろしずんで、楽しめそうです。

「カップリング」のことなど

久しぶりの更新になってしまいました。
ずっと書きたくて、うまく書けないことのまわりをめぐっていました。それは「先生」ということについてです。精神医学、心理臨床関係の本を読んでいると、「先生」「師匠」という言葉によく出会います。決して、書いた人たち、語られている人たちが「医者、治療者である」からということにとどまらず、臨床家を育てる、育つことの中に「先生」との出会い、「先生」と感じられる人との出会い、ということが大切な要素のひとつなのかもしれないと思います。そこで育てられる「人」、「技術」が、人と出会い、抱え、生命性の自然治癒力が動き出すための触媒としてあるための「ありかたの質」のようなものなのだとすれば、それは「先生」と呼べるような人との出会いの中で揺り起こされて育まれるような「しずかなちから」のようなものなのかもしれません。

自分にとって、そのような意味での「先生」って?など考えてしまいます。(それは踊りのことにかぎらず、広い意味でですが・・・・。)最初に踊りを習った人が「先生」なの?と振り返ってみると、決して自分にはそうではないと思うし、一番意識させられて、サジェスチョンも受け、この人のようであるのは自分には無理だけれど・・・、と思っている人が「先生」なのかと思うと、それも少し違うような気がします。その人のことは、「先生」という「距離感」ではないところで会いたいという感じがあるのだと思います。
そのような感覚のベーシックには、「先生」として心決められないこちらの「なにか」があるようにも思います。ある踊り手の友人は、(その人は先輩でもありますが)「踊り(舞踏)は師をもたないんだ」という感じでいうのだけれど、その人の言うのは分かるけれど、でも、それも腑に落ちる訳ではないし・・・という感じです。

いくつか、読んだ本のこと。

 井上信子著 「対話の世界」-心理援助からいのちの教育へ-(新曜社刊)

「ドキュメント」だと思う。クライエント(スクールカウンセラーとして出会った子供達)や、大学で先生をめざして勉強している学生たちとのあいだでの「かかわり」、「対話」のドキュメント。
井上さんはそれぞれの「いのち」の資質の開花というような言葉で言っています。それぞれのいのちの資質が揺られ、開かれてくる「とき」の対話、かかわりの様子のドキュメントであり、またクライエントの方、学生の方それぞれの「いのちの資質」のうごきのドキュメントでもあるようにおもいます。そして同時に、井上さんと、井上さんの臨床の先生(神田橋條治さん)とのあいだの、井上さんの「いのちの資質」にとっての揺らぎ、葛藤と、対話のドキュメントでもあります。

「対話」として間奏のように挟まれる神田橋さんの、やわらかさと「距離感」の次元を行き来するような「風と揺れを入れることば」がドキュメントを角度を少しかえたところから照射します。(でも神田橋さんもドキュメントの当事者でもあるような・・・)。

「先生」のことを考えてしまうようになっていたときに、ちょうどこの本を読み出して、「タイムリー」にも、さらに思いがつかないようになっていってます。


 村瀬学著 「カップリングの思想」-「あなた」の存在論へ-(平凡社刊)

注意、注意力が人にとっての「空間」をつくる、というようなことを考えていました。たとえば目にはいり、「映った」看板とか、人とか、景色とか、そういった時に(ただ見えただけではなく少しでも注意の対象として「あった」その時に)どちらが先かは(こちらから注意が向いたからか、対象からひきつけられたからなのかは)言えないもののように思うけれど、注意が向いたとき、注意がそれに引きつけられたときその対象は何か「必要さ」をはらんだものとしてそこにたちあらわれていて、「空間を」つくりだしている、というような・・・。そして、人はその「作用(はたらき)」そのものをどうしても必要としているのではないか、というような・・。

先の「先生」のことやそのようなことに考えが巡ってしまうときに本屋の棚で偶然この本を見つけて、「これは絶対自分に今大事なものかもしれない」と思い、手に取りました。

村瀬さんの名前は滝川一廣さんの本のなかで村瀬さんの「理解のおくれの本質」という本のことが紹介されていたりして知ってはいたのですが、読んだのは初めてでした。

V.E.フランクルや、寝たきりの障害者の少女「天音」さんのご両親のことや、臓器移植体験者でイタリア・ルネサンス研究者の澤井繁男さんのこと・・・などを引いて、ひとという生き物、「人間」というもののどこかからわき上がってくる「生き『よう』とすることへのベクトル」がどこから生まれるか、「ひとり(単独)」であることではなく「カップリング」という形態、状態がベーシックであるのではないか・・・といったことを考えさせられます。

わたしにとっての「なにか」である、という意味での「あなた」(それはかならずしも人間だけとはかぎらないのだけど)の存在を必要とする、人間のなかの「なにか」エネルギーのようなもの。それが「いきているという感触」ととてもつながっているということ。

最近どんどん自分にとって必要である本、言葉がつながってきています。知らなかったものを偶然目にしたりということも含めて。そのような時期にはなぜかつながってあらわれてくるのかもしれません。


いきなり(ではないんだけれど、)思い立ってジャンベ(アフリカの太鼓、ハンド・パーカッション)を買ってきました。9インチなので、あまり大きくはないものだけれど、自分のからだにはフィットするボリューム。その辺をいろいろ叩き方のイメージ変えてみながら叩き方の感覚を変えてみる。「皮」という平面をヒットするようなつもりで叩くのか、ジャンベの木のボディに皮を通して垂直に風、空気の振動を送る、通してやるような感じで叩いてみたり、とか。で、先の村瀬さんの本の印象もあるので、ジャンベを「あなた」にしてみるというのもあるなあと思いつく。音を出す楽器、道具というより、叩くということをとおしてただジャンベという存在(もの)に話しかけ、伝えているような気持ちで叩いてみる。感覚は、かなり変わるし、充実感の質のようなものもそのなかで変わって、面白いです。

「ぶらさげ赤ちゃん」e.t.c.(からだにのせてみることば・3)

からだにのせてみることば、です。

「腰を見る」
からだのある部分に注意を向けるということは、「そこを気にして」というより以上にもっと具体的に「見続けて」(もちろん意識で見続けて、だけれど)いないといけないのだと思う。その部分、パートがちゃんと質感として、身体のほかのところと重力に対して「そこにあるもの」という実感がキープできていないと、「見て」いることにはなっていないのだなという・・・。
2週間くらい前か、宮崎祐子さんの「エリック・ホーキンス・テクニック」のレッスンを久しぶりに受けていて、気づく。気にして、注意を向けて、という以上の、注意の目。

「鎖骨」
鎖骨と肩甲骨とのあいだの「空間」を「放す」ことによって拡げる。ひろいものとしてとらえられるようにする。
鎖骨の内縁を感じる。自分はその内側におりておさまっている。少し鎖骨を胸鎖間接から内側に返すように意識してみると内縁を感じやすいような気がする。

「口」
唇を、かぎりなくやわらかく。頭の重さはやわらかくなった唇より自分側におりてくる。そうすると頭の皮膚や顎まわりも少し力がぬけやすくなるかもしれない。

「脇」
肩甲骨の下辺をとらえて、そこから下の脇を軽く「持つ」ように包んでいる筋肉(?)を意識してみる。あがり気味の「気」がすこしおりるような・・・。

「背骨の奥行き」
からだの奥行きではなく「背骨そのものの奥行き」(要は直径?かしら)をとらえるようにイメージしてみる。後ろ側の棘突起から前の椎間板まで・・。(簡単にいうと、後ろのゴツゴツから背骨自体の太さをイメージしてみる、かな)。からだは立てて、背骨だけ、その太さをもったものとして、からだの中を泳がせてみる。

「聞こえてることと、観察すること」
最近外でやった友人の踊りを思い出していて浮かんできたこと。からだのこと、からだの内側のことは「見る」、「視る」というような感じでとらえて「観察」しつづけていって、外側を「聞く」ようにする。そとがわの「空気」は「聞く」ようにとらえて・・・。「澄んで聞こえてきている」ように。同時に、自分の呼吸(呼吸音ではなくて)も、聞くようにとらえて。closeしていない感触のために。

「ぶら下げ赤ちゃん」
電車の中などで、お母さんが赤ちゃんを持ったりするときにぶら下がり状態になっているときがある。そのときの赤ちゃんの様子をみていると、お腹の力が抜けていて腰から下が捨てられてるような「ぶらぶら」の状態のときがあって面白い。普通大人はどこかキープしていて、何かからぶら下がっていてもそんな感じとはちがっていることが多い。そのときの赤ちゃんの感触を自分のからだに映してみること。その状態で歩いてみること。お腹のなかの広さ深さが変わって感じられるような。


読みおえたもの 高木護著 「足考」(未来社刊)
詩人、放浪(ぶらぶら)の人の、足についての思考散歩。ぶらぶら歩き放浪しながらの自分を助けてくれる、自分の仕様もないパートナーでありつづける「足」との問答、対話。こんなことを書く人が!?、こんな本が!?という感じの本です。

のぐちひろしライブ

銀座のMiiya Cafeへ、のぐちひろしさんのライブに。
GUILDの12弦ギターとウクレレ(昨日のライブはウクレレ無しでしたが)で歌い、メキシコのストリートチルドレンのためのボランティア、支援活動等にも参加している、弾き語りの歌い手さんです。

数寄屋橋公園の脇を新橋方向に少し入り、右に折れて。バーがたくさん入っている雑居ビルの中にあまりに不似合いな小さい引き語り中心のライブハウスです。

のぐちさんとは10数年のつき合い。むかし、彼が企画した都電荒川線でのライブや東京タワーの水族館でのライブにミュージシャン風なことで参加させてもらったりしたこともあります。

最近CD「満ち欠けのしずく」を自主制作盤で発売。そちらはバンド形式を中心のアレンジで。ピアノで谷川賢作さんも参加されています。

ここ一、二年で彼の歌、歌ってるときに感じられる空気が少しずつ、そして大分変わってくるのにライブのたびに立ち会っているように思います。これは私が感じたことなので、彼は「違うよ」と言うかも知れないのですが、なにか「地に足がつき」、歌っているときに「前に、前に」といった押し出しなんかとは違う「そこで膨らんで歌う」落ち着いた存在感みたいなものがあらわれてきてるように感じられます。「硬くなく、ふわりと太くなってきた」ような・・・・。なにかが開けたんだろうなと、嬉しくなって見ています。

昔から歌っている曲も、同じ歌詞でも、違って聞こえてきます。その「自分の歌詞、言葉」という「自分の中のもの」を出したくて歌っているという感じから離れて、ひとつの「曲世界」というか(ストーリーというのとは違うのだけど)まとまりのあるような「一つの寓話世界」みたいなものが感じられるというような。「小さいお話」を歌でくるむような。

この日は最後にスペシャルセットで、対バンの中川ともゆきさん(音楽療法士さん、介護活動などを仕事にされてるフォークシンガー)、ma-hero さんとのトリオでZABADAKの「遠い音楽」のカヴァーを。「遠い音楽」はのぐちさんがずっととりあげて歌い続けている曲でもあり、私には「ZABADAKの、」というよりも、「遠い音楽」はのぐちひろしの歌という感じです(原曲もいい曲ですが・・・)。この日の、中川さんの優らかくのびやかな声のコーラスとアドリブで重ねられるギターのメロディ、ma-heroさんのボーカル、のぐちさんのギターと歌、コーラスのセットはとてもよい時間でした。

まだまだ「看護のための精神医学」

まだまだゆっくり読んでいます、「看護のための精神医学」です。
そこで「複数のもの、ことが共にあることがふつうのこと」で、「よい方向へうごいていくために必要かもしれないこと」を選び、からだ、「抱えかた」で空気のふくらみのようななにかを整流する。そしてそれは「いること」の共同作業でもあって・・・。やはり踊り、ダンスといったことのなにかに触れる、リンクすることがたくさん言葉にされているように感じます。
以下、また、本文より引用です。


「30分面接しなければワルイ」とか「親切に話を聞いてあげなくては、よい看護ではないもの」と医療者が思わぬことである。そういう考えは一般に「自分と接していることが患者に有益である」というたいへんな思い上がりである。
「指1本たてて微笑してさらりと別れる」ほうがずっと「信」を贈ったことになる場合が、人生にも医療にもずいぶんある。(p.231)


「医療はすべて人体実験である」という考えにたいして一言しておく。「医療は未知数を含む状況にたいして悪化の危険を最小に、状況の改善を最大にするようにおこなう、患者と医療者の共同作業である」と筆者は思う。実験的要素はそれに一面から光をあてたにすぎない。(p.233)


「患者が変わる」のであって、医療者が患者を変えるのではない。医療者は「患者が変わるの際の変化を円滑にし方向の発見をたすける触媒」、できるならばあまり害のない「よき触媒」であろうと願うのがゆるされる限度であると筆者は思う。(p233)


ある医師が、ある老人施設で痴呆性老人の身体看護は満点だが何かが足りないと感じた。彼はいまは何も口をきかない老人たちの生涯を調べて、看護詰所で語った。「この人は、障害児を育て上げた人です」「この人はガダルカナル島の戦いに生き残った人です」というように。
そうすると、いつの間にか空気が変わって、人間にたいする看護らしくなったという(p.257)


この患者は自殺しかないのでは、という患者からくる否定的な「暗い風」に圧倒されないことである。そういうときに、「あなたが自殺せずに生きつづけているのは喜ばしい奇跡だよ」とこころのなかでつぶやくのは自殺防止になる。このつぶやきは顔にでる。患者は治療者の顔色に敏感である。(p.211)


決して都合のいいように読み替えてつなげているのではないと思います。こういうことにつながるなにかを考えてみたり、そういうときの身体感覚やからだに立ちのぼってくる感情、こころを動いているときのからだに羽織らせてみて観察してみるのは、「表現」をつくること、「表現のようにする」こと、よりも大事かもしれないなにかをはらんでいるような気がします。

「看護のための精神医学」

朝早めに家を出るので、東には上がったばかりの秋の陽と、西には白く透き通っているような月が見えます。今日のように雲もほとんどない天気だと(おまけに空気も澄んでいるようなので)、朝の月はとてもきれいです。

先週からずっとすこしづつ読み続けているのが「看護のための精神医学」(中井久夫・山口直彦著、医学書院刊)です。まだ半分くらいです。

文字通り、看護師、看護学生の方のための、精神科の病気や患者さんの医療・看護についての大切な案内書、という感じの本なのだと思います。私はある方のサイトKAMEL'S WEBSITEに神田橋條治さんのおすすめの本というのが紹介されてあり、それでこの本のことを知りました。

私のような「自分の側に引きつけた興味」で精神医学や臨床関係の本を読んでいる人間は、実際の病気のことや、治癒過程・治療関係のことなどをほとんど知りません。私の場合は実際に知人として精神疾患を引き受けてしまっている人という人も知らないでいます。そのようなところから読んでいる人にとってもこの本はとても実際に「患者さんの感覚の上に起こっていること」や、治療者・看護者・家族・周囲の人といったサポート側の人の「そばにいるありかたのうえでの気にかけるべきこと」に思いを巡らせてくれます。

「治療的にはたらく態度」(態度というか、「応対の気遣いの質」でしょうか)というものがあって、そのちょっとしたこと、気遣い、受け答え、声の音調・・・・・、で、患者さんにとっては「何か」になり得て、それが治癒への「地力のようなもの」、治癒へ向かえる「余裕のようなもの」をすこしづつ育くむ素地のための養分になっていくのでしょうか・・・。

以下は引用です。私にはとてもひきよせられる言葉です。

 急性統合失調状態を無理に「理解」しようとする必要はない。折れ合おうとする必要はない。できないことを無理にすると徒労で有害なだけだ。しかし人間は理解できないものでも包容することはできる。
 それは広い意味での「母性」である。筆者は男性だが、統合失調症の治療の際は、自分のなかの女性というか母性を動員している気がする。ただ、「母性」にも「副作用」がある。それはきつく包容しすぎて、窒息させることである。「卵を握るような、ふわりとして落とさない包容」という感じがよかろう。
 患者にたいするときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる。(p.142)


 慢性統合失調症の看護は、彼らを無視しないことから始まる。彼らがいないかのように廊下を急ぐ医療者は、患者からはさぞ「自閉的」に見えるだろう。軽くあいさつしながら廊下をゆっくり往復しているだけで病棟全体の雰囲気は変わる。これは「病棟を耕す」といって、荒れた病棟に着任したときにまず薦められる方法である。 


 患者を「精神医学化」しないことが大切である。「幻聴」と患者が言ったら、「ふしぎなささやき声?」と聞き返すようにするのがよい。


 引きこもっている悲妄想型の患者には、シュヴィング的方法がよいであろう。「人間が人間にとってものすごく危険ではないこと」を示し、人間になじんでもらう方法である。しかし患者の横に座る者はふしぎないらだちを感じて、用事を思いだして席を立ってしまう。これに耐えて、ふわりと患者の側に座っているということは簡単そうでむずかしいが、治療関係の出発点である。
 「コメントの多い母親」に似た行動をとらないのも重要なポイントである。


 急性期の錯乱している患者にたいしては、「いまは、あなたの人生に何回もない、非常に重要な時期だ。これを乗り切るために協力してほしい」
 反論に対しては、「あなたは生まれてからこうだったのだろうか?」
 治療関係の中で、「あなたが何をするか、何をしたいか、何をしたくないかを考えるゆとり(自由)がもてるまでお供しましょう」
 「精神病の治療の目標は、病気の前に戻すことではない。病気の前には、どこか不安定なところがあり、病気の種子があったに違いない(たいていの患者はうなずく)。病気の前よりもよくなる必要がある。そこに治療のむずかしさもあるのだけれど、せっかく貴重な体験をしたのだから。たとえ見ばえはしなくとも病気の前よりも安定した状態になることが大切だ。それは思いつめないゆとりのある状態であり、いちばん悪いことがいちばん実現しそうに思わない状態であり、アンテナがピリピリしてノイズまで拾ってしまわない状態だ」・・・・・・など。
         (以上p150~152)


引用が長くなってまったけれど、こういった言葉が背景にしている「気配」は、「直接」ではないかもしれないけれど、「踊っているときの自分と環境、人とのあいだの感覚」を考えたり省みたりということの大切な部分とリンクしているような気がします。「見えておもしろそうなこと」をしたり、自分の「My World」のようなものをただ環境に「これを見なさい」というようにぶつけたり、「自分の動き」のようなものを空間にただ置き捨てていくことを第一のようにパフォーマンスすることよりも、踊ることにとっての「何か、ベーシックとそのまわり」とにつながっているようなことがあるように思えます。一見、ダンスやパフォーマンスといったことがらと全く違う世界のことを書いてあるような言葉だけれど、そうではないのではないかなと、思います。

看護のための精神医学

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