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2004年09月

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9/24WORK「Tapping Touch」

9/24の「からだの作業場」ワークは、「タッピング・タッチ」というものを中心にやってみました。

職場近くに出来た話題の「丸の内oazo」の丸善本店(図書館のような気配の大書店)で偶然「ピン」ときて手にした本がきっかけでした。
手指のもっている「触れる」「触れられる」感覚、感触をいろいろあれこれ考えていたとき、また神田橋條治さんの「精神科養生のコツ」のなかの「指タッピング」が気になっていたときだったので、「タッピング・タッチ」という書名に引っ張られたのでしょう。

中川一郎著「タッピング・タッチ こころ・体・地球のためのホリスティック・ケア」(朱鷺書房刊)です。

中川さんは臨床心理学者の方で、現在は三重を中心に活動されているようです。

本を手にとってみてひかれたのは、やっている様子の写真です。ときおりあるこのようなボディワーク、リラクセーション系の本の紹介写真にありがちな「いかにも明るく微笑んで」いたり、「なぜか神妙そう」だったり、「不自然にレオタード姿」だったりということがなくて単純に空気が明るいのです。シンプル、シンプル。これはどんなものだろうと気になります。

ということで、とりあえず、未体験のものですが、本の説明をたよりに見よう見まねで、ワークに参加してくれた人たちと一緒にやってみました。

参加者は常連の中国武術さんと、ダンサー・パフォーマーの村田さん、と私です。基本的には二人組でやるのがベーシックなスタイルのようなので、まずお二人に組んでもらって、私は本を見ながら、サポート、進め方のサジェスチョンに。

基本的には単純です。(詳しくは本をごらんください)中川さんは「グルーミング」(毛づくろいに限定されない『ケア』としての)になぞらえています。すごく略してしていってしまえば、「パートナーの背中を中心に頭や腰、肩等々を指先のはらの部分で軽く弾ませるようにタッピングする」というだけ(笑)。いわゆる難しそうな「技法」的なことはほとんどなくて、「気」みたいなこと云々というのもありません。肩胛骨の間から背骨を中心に左右交互・対称に徐々にタッピングして腰まで降りてきて、また上がって、頭、首、肩・・・とやって、あとはご希望の所をやって、また肩に戻っておわり、です(すっ飛ばして順番としていうと・・・)。そのなかで大切なことは「一秒に左右一回ずつ」くらいのリズムであること、これはゆったりと落ち着いているときの心拍のリズムだそうです。また、「相手に気(エネルギー)や念をおくったりしようとしないこと」「相手をどうにかしようと思わないこと」そして、「ただ軽やかにタッピングする、心地よくタッチする」ということ。そして「マッサージにならないように」ということ・・・。

まず、中国武術さんが「してもらう側」村田さんが「タッピング」する側で。最初なので、うまく感じがつかめなさそうな様子。と、いっても自分もやったことがなくてこれから初めてやるものなので、見ながら考えてのサジェスチョン。タッピングする側が腕、手首の力が緊張して抜けないと、その「硬さ」は相手に伝わってしまう。そしてそれが余計硬さを・・・というような気配が少し。触れられる感触に敏感な中国武術さんの「左右で強さが変わってしまうのがちょっと・・・」という指摘。均等な感じで叩くのも難しいもの。(打楽器を打つことを思ってみればわかるはず)村田さんはどうしても「下から上に向かって」タッピングしてしまう傾向があって、中国武術さん曰く、「逆毛になでられてるみたいで気持ち悪いかも」とのこと。たしかに見てると下から「つんつん」突き上げてるように見えて(笑)妙。そうならないように、そうならないように、と気にしすぎると、「注意力張りモード」みたいになって、余計なんだろう、どうしよう、と言う感じになって、空気が「明るく」ならない。そこで本の写真達の明るい様子を思い出して、「こんな感じなのよ」と見てもらう(笑)。わかっちゃいるけど、そう上手くは、初めてだし、ということで役割交替。

今度は村田さん「してもらう側」、武術さん「タッピング」で。武術さんは先に自分がしてもらったので、少し慣れているせいか、先の村田さんほどの「迷ってる」様子はなく、自分がやってもらっていたときの感触とのあいだでフィードバックをさせてみている感じ。それは「あとからやる側」のほうが情報持ってるぶんだけ強いわけです。さっきよりはスムーズ。でも、村田さんも、武術さんも、次第にタッピングの間合いが速くなっていく(笑)。「ゆっくりマーチ」みたいな。「一秒に左右で一回ずつ」という感じで「数えて」(時間を定規ではかるみたいに)やることじたいが、ある意味「不自然」な気持ち悪さ、おちつかなさを増やしてる気がする。

武術さんに、「一秒で数えるんじゃなくて、自分の心臓のリズムをとらえて、それにのせてやればいいんだよ、きっと」と言ってみる。不思議にそれだけで、その一瞬で様子が変わる(笑)。タッピングしながら実際に自分の心臓の打つのが「聞こえる」わけではないのだけど、感覚的に「心臓のリズム」のほうに気持ちを寄せてみると、なんとなく人はそれをからだのなかを通してる(どこか律している?)波のようなものとして感じ、重ねられるチャンネルがあるのだと思う。武術さんに「分かってるなら先に言ってよ(笑)」のように言われたのだけど、これは見ていて分かってくる「カン」のようなもの。ほんとはこういう「カン」がそれぞれ同士のあいだに行き交うようになれば面白いワークの空間になっていくはずなのだけど。

役割かわって、国江が「タッピング」、村田さん「してもらう側」で。これは最後にやる方も少し、楽なくじを引く。見てるから。とはいえ、やはり難しい。本のように「軽く弾むように」というつもりでやると、「変に叩いてる」ような感じのタッピングになってしまう。弾ませるのを人為的にやってるような感じになってしまう。きっとこれはちがいそう。試しに、「弾んでる」感覚を指を跳ね上げてしまうことなしに作れるかな、と試してみると、指が相手に触れた瞬間に指のなかの力を抜いて、手首の力も抜いてみると、触れた瞬間に、中でタッピングの力が弾む感じになるのを発見。いいかもしれない。受ける側の村田さんも慣れてきたのか、「気持ちいいかも」というような感想がでてくる。

そこで、もいちど最初の組み合わせに。村田さん「タッピング」、武術さん「受け手側」で。これは受けた武術さんも、見てる私も、してる村田さんも三人驚いたのですが、「さっきと全然違う!!!」と。

やってみること、そして、受けてみること。本当に、「別の組なんじゃないの?」というくらい変わっていて、三人とも目をみはる。「タッピングの仕方」(力の抜けかた、テンポe.t.c.)とか「受け方」というだけでなく、そこに座ってる二人の空気が違う。「母・村田」みたいな(?)しっとり落ち着いているタッピングする気配がありました。村田さんいわく、「子守歌のリズムね~」と。そうかもしれない、と。なにか納得でした。

 ホリスティック心理教育研究所・くまの元気広場(中川一郎)

 中川一郎著「タッピング・タッチ」(朱鷺書房刊)
タッピングタッチ

「たて」に立てられる声とうた(2)

吉祥寺Star Pine's Cafeでのタテタカコさん、one toneのtwo man ライブ(二組み対バンをtwo manって言ってたけどなんか妙な気が・・・)。13:00より。

午前中にあげないといけないことがあり、家を出るのがおそくなり、20分過ぎに会場へ。受付で呼びかけられ誰かと思うと、チラシを置きにきていた「シカラムータ」のみわさんに遭遇。11/13、11/14の「シカラムータ祭り」(結成10周年ライブ)のチラシ。「それなら、」と、中野planB用にと、ポスターと置きチラシを預かることに。

中に入ると座席は満員でスタンディング。one toneを聴くのは、はじめて。ボサ・ノヴァをベースにしたような、ギターと女性ボーカルのDuo。透明感ある声で歌う。最初からきければよかったと・・・。

タテさん。one toneのサポートメンバーの方がグランドピアノを弾いていたので、タテさんもそれを使うのかと思っていたら、先月見たときと同じエレクトリック・ピアノでの演奏。エレクトリックピアノをかなり舞台の前の方、中央にセッティングして、歌う。しかも、まん前を向いて(笑)。「うごきつつ」、とも「リズムに揺れて」(もちろん揺れたりもしてはいるのだけれど)という感じともちがって、まっすぐ前を向いて歌う。目を軽く閉じて集中するみたいに、ときおり遠くをまっすぐ見つめるように。

先月のライブを見たときにも感じたのだけれど、からだは「たて」に(別に名前にかけているのではなくて・・・)置かれて、からだと声の柱、芯がのびていくような感じがする。すると、うたは前に、声になって届いてくるように感じられて。「声、エネルギーをからだから発散させて」という歌い方ではなくて「縦に響かせながら、声を前に届けようとしてる」ような感じなのかな、と思う。

MCでは不安そうな、言葉がでるのがこんがらがりそうな落ち着けなさのような感じとかあったりして、観客には「微笑ましく」映り笑いがもれたりするのだけど、歌い出すと一転、落ち着いて「真っ直ぐ」という感じ。歌い出した途端、地に足がつくみたいな。

「自分が自分の足で立つ」(『自立』っていうことではなくて)ために歌ってる、というか、「歌ってるときは自分の足で立ってるんだ」という感覚か何かをとらえるように歌っているように思えて。ステージの前の方でまっすぐ歌うのもそうなのかなと、間違ってるかもしれないけれど。

「普通」・「隣」・「抱え」

「響きの器」のことを書いて以来、だいぶあいてしまいました。やはり大きかったのでしょう。(内容だけではなくて、今の自分の何かとのリンクという意味で・・)

その間、栃木での宮崎祐子さんのワークに参加したり、そのなかでいろいろな人と話したり、会ったり、自分の「作業場」のワークでの小さい発見があったり、参加するはずの公演、グループをから心をきめて降りたり、等々いろいろありました。

読んだもの
 神田橋條治「精神療法面接のコツ」(岩崎学術出版社)
 滝川一廣「こころはどこで壊れるか」(洋泉社新書)

滝川さんの本は、精神科医療、メディア、言説、社会、犯罪心理学等に関する現況を冷静に実際的に状況分析して、考えていく対談。神田橋さんの本は精神科医のための精神療法面接の実際に関するアドバイス、サジェスチョン。でも、からだ、ひとのありようについてのひろく、おそらくベーシックな「なにか」にふれているように思います。自分は、からだや、相手、そして広い意味での「環境」としての周囲・関わり合い、そして意識の集注感覚についての示唆を受け取ります。そして"attitude"。

今よみだしているもの
 
「看護のための精神医学」中井久夫・山口直彦著(医学書院)
 
文字通り、看護職を目指すひとたちへの精神科医療に関しての「教科書」、「副読本」です。様々な病気・病態についての知識、そして、「治癒」していく過程のこと・・・。
 
 「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。病気の診断がつく患者も、思うほど多くない。診断がつかないとき、医師は困る。あせる。あせらないほうがよいとは思うが、やはり、あせる。しかし看護は診断をこえたものである。『病める人であること』『生きるうえで心身の不自由な人』ー看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際、医師の治療行為はよく遅れるが、看護は病院に患者が足を踏み入れた、そのときからもう始まっている・・・・」(本文より)

いま、自分にとっての「ことば」が三つあります。「普通」と、「隣」と、「抱え」です。
「普通」と「隣」は踊りのシリーズタイトル(テーマ、のほうが近いでしょうか)にもつかっています。「隣」は最初踊りのために浮かんだ時のニュアンスと、今自分がそのことばにかけたいニュアンスとは大分移ってきています。「知っている感覚の『隣』へ・・・」から、ただ「隣に身を置いているからだ」へ。「普通」はそれこそ、「普通」です。もうひとつのことば。神田橋さんの本からもらいうけたものが「抱え」です。

これは神田橋さんが言ってることではありませんが、皮膚で、自分の存在を「抱えて」あげる。自分の「からだ」で自分の存在を「抱えて」あげる。空間、空気に自分を「抱えて」もらう、空間、空気が自分を「抱えて」くれるように自分の何かをシフトしていく・・・・・と私のなかには拡がります。

『がしっ』と受け止めてくれる「抱え」もあれば、やさしく触れているような「抱え」も、見守っているよ、という「抱え」もあるでしょう。そこで生体の自然治癒力や地力がはたらきだしてくるための、みとめられているという空気空間にサポートされてなにかが動き出してくるための「素地空間」のようなものなのかもしれません。

尻切れトンボですが・・・。

Lebens-Musik 「響きの器」

「響きの器」という本があります。
書かれたのは、ドイツで音楽療法(彼女は"音楽治療"といっていますが)をやっている多田・フォン・トゥビッケル・房代(のぶよ)さんという方です。

Lebens-Musik <生きていること>と音楽。
その人-いのち-在ることを、「音、音楽」として「聴く、"響き"としてからだを通っていく」。
風、空気、樹木・・・・、を「音、音楽」として「聴く、"響き"としてからだを通っていく」。

「響き」を感じる身体、「響き返す」身体、『響きの器』。

多田さんは「音楽治療」について、『正しくする、もとどおりにする、とそう思って私たちはこの仕事にとりかかっているのではないと思います。ーたとえ結果がそうなったにせよ、です。ともに経験、体験するこの音-楽プロセスの中で、治るー「安らかに定まってくる」「整ってくる」つまり、Stimmen 「調整する」「音を合わせる」と重ねて、そのような響きで受け止めることができるのではないでしょうか。』(105p)と言っています。(医学と音楽の「間」)

昨日電車のなかでこの本を読んでいて、うまれてはじめて・・・そりゃ、普通そんなことしないから(笑)・・・ぼろぼろ涙を流しながら、でも、だからといって本を途中で閉じる心にはなれずに、読んでいました。

踊りと、こどもと"ともに"つくる美術アトリエとを「自分のこと」としてつなげているやっている友人に教えたくなってしまい、電話をする。きっとその友人には「なにか」になる本だろうと思ったので。
そういうふうにかりたてられる本、ことばの本・・・。

響きの器

多田・フォン・トゥビッケル・房代(のぶよ)著「響きの器」(人間と歴史社)

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