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2004年07月

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「7/30Work」

7/30ワーク、です。といっても、二人だけです。常連の中国武術さんと私。この二人の時はお互いの、からだに対する関心を自然、交換、やりとりするような感じになります。私の最近のからだに対する関心・興味と、彼の武術・人との関わり合いの空間のからだへの関心と。

彼の最近障害を持った人たちとのダンスワークショップに参加した際に感じたことからの話につながって、「ムーブメントや力、動きのやりとりにとどまらないコンタクト・ダンスってなんだろうね」、とか、いろいろ・・。

以下、私がわからの今日の発見日誌のようなものです。

仰向けに横になり、いわゆる「力を抜いて・・・」という姿勢?になります。でも、「力はただ抜ける」とは限らないので(笑)、実はどこかに意識をフォーカスしてそこをゆるめたり、逆に、「フォーカスしているところ以外のところを捨てる」ようにして力を抜いたりしようとします。(もちろん力を入れてから抜く、といった感じで物理的に抜いていくのもあります)

自分の場合は、ゆるめたいところに意識をフォーカスするというように今までやってみることが多かったのですが、そうするとどうしても頭部、首が「残る」ので、まず、頭の皮膚をゆるめたり、「脳が心臓みたいにゆるやかに脈動している」というようなイメージをもって頭をゆるめて、でも、意識は頭からはずさずに、からだのほかの部分はただ放して置いておくような感じでをしてみました。実際に頭の中から首にかけて中が揺れているような感覚になります。またパート、パートにフォーカスしていくよりもからだ全体の重さ感は感じられるようで面白かったです。

そのうえで、体の皮膚を、ぴったり包むボディスーツみたいなものではなくて「風呂敷」みたいなもののようにイメージして、それを胸のあたりからひらっ、ひらっと「開いて」みると。胸から肩にかけてふっと、落ちます。

もうひとつ面白かったこと。これは最近中井久夫さんや神田橋條治さん、村瀬嘉代子さんの本などを読んで気になっているせいもあるのですが、「隣にいる空気のようにいる感じ」(相手や自分に入ってしまうのではなく、そこに流れているようにいるいかた?かしら)でパートナーに触れている(マッサージしようとか、ゆるめようといったことも思わずに、ただ触れている)と、ポイントが合うと、自然にこちらの手が少し動きだしている感じになります。(押したり、筋肉をのばしたりというのではなく、さすっている、に近かったですが)またその流れで中国武術さんの丹田・下腹付近を触れていたとき、自分の手だけではなくからだも揺れだして動いていました。(動かそうとしていないのに)「相互活元」みたいなものかなあと思いますが、よくわからないのですが。彼も「丹田が動いている感じがした」といっていたので、なにかお互いのあいだでおきてたんでしょうね。

「隣にいる空気のようにいる感じ」はなんとなく、「肋骨の間(イメージ的には心臓の辺り??)から水平に拡がっていく面をとって、同時にお腹周りのなかに自分がおさまっておりていて、でも同時に波にまかせてもいるような」感じでやってみたら、今日はなんとなく「こんなかな・・・」という感じになりました。

不思議な感覚体験でした。中国武術さんに感謝です。

「普通」について

中井久夫さん村瀬嘉代子さんと、精神・心理臨床の方の本ばかり読んでいます。で、次に読んだのも「べてるの家の「非」援助論」(医学書院)です。

どうしてこのような言葉(べてるにかぎらず、中井さん、村瀬さんの言葉も「現場の当事者」の言葉です・・・もちろん彼らは病気の当事者=患者ではないけれど・・・)にひかれるのかというと、やはり「普通、ふつう」ということを考えてしまうからなのかもしれないと思います。なにが「普通」か、なにが「当たり前」か・・・。そして「閉じない(閉じてしまっていることもみとめたうえから)ことに触れるための身づかい、肌づかい」とでもいうような何かを感じます。

自分のなかには「これでも普通です」といいたいところがあります。(わざと変なこと、妙そうなことをやってそれを「普通だよ」というようなことや「変でしょ」というようなこととは全然ちがうことなのですが。)

てらうわけではない、ふつう。「これでも、はじめられる"普通"です」というような。

(「べてるの家の非援助論」はSanaさんのウェブログ「Silent Voices」の記事で知りました。また、べてるの家にはホームページもあります。)

「小さな贈り物」

中井久夫さんの「徴候・記憶・外傷」を読み終え、ほとんどその流れで、村瀬嘉代子さんの「小さな贈り物」(創元社刊)を読みました。中井さんが挿し絵を描いているということで知った本(別に中井さんの絵のために買ったわけではないのですが)です。

家庭裁判所調査官を経て、今は大正大学の教授をされている、臨床心理学者、カウンセラーの方です。重複聴覚障害の方々の施設での心理的援助者としての関わりや、養護施設での心理的援助者としての関わりなども大切な「仕事」とされているそうです。

御自身の疎開の折りの話(「いのち」としての言葉)や臨床体験の中でのクライアントの方との関わりのなかでの様々な「ひらかされること」を分かりやすい言葉で(つたわる言葉で)そして簡潔な言葉で、伝えてくれます。「自然に心をくだかれた言葉」というか・・。

「居場所」のこと、「虚心に聴く」こと、「精神療法とはどこにあるの」・・・、というように書いてみても、村瀬さんの書かれたことに触れらているような感じにはほど遠いのですが、私にはこの本自体が「小さな贈り物」のようなものです。

  村瀬嘉代子著「小さな贈り物」- 傷ついたこころにより添って -(創元社刊)2004.4新刊

小さな贈り物

パトリシア・ピッチニーニの「We are Family」

「彼らをあなたの家族に迎え入れられますか」

最相葉月さん主宰の'Life Science Information Net'「受精卵は人か否か」というサイトにあるコラムのページに、今年の一月に産経新聞大阪版に彼女が書いた記事が転載されていました。今年2/1まで東京の原美術館でやっていたオーストラリア在住のアーティスト、パトリシア・ピッチニーニの「We are family」展についての記事です。私はこの展覧会のことも知らず遅ればせながら、先日彼女のサイトを見て知った次第です。

展示されていた作品はパトリシア・ピッチニーニのホームページで見ることが出来ます。是非見ていただけたらと思います。もちろん最相さんのコラムはサイト(「風の聲」のサイドバーのリンクから飛べます)で見ることが出来ます。

Tシャツ姿の二人のTVゲームをする少年達の姿。彼らは背丈、様子は少年だけれど、皮膚は老人のように皺が浮き上がっている。
また、肉の塊のようなものを撫でたり抱きしめたりして可愛がっている少女の作品や、豚とも人ともつかないような生き物の親子が寝そべっている作品もありました。

少年達はおそらくクローンで(染色体のテロメアという部分が通常より短く寿命に影響するのではといわれているらしい)、肉の塊のようなものは、胚生肝細胞からつくりそこねた「臓器になりそこねた失敗作」のようです。「生き物」はおそらく想像できる通りで。

あまりに直截な方法の作品(ホームページの展示の写真を見ると樹脂で立体的に肉感的につくられた”そのもの”がそこに置かれてあるようです)だけれど、近い将来に目の前に現れているかもしれないことを直截に説得力をもって目の前に置かれたときに、自分たちの心、生理的なものはどうそれを受け止める(受け止められないことも含めて)のか、違和感や嫌悪感や拒絶感も含めて、ということを突きつけられるような気がします。

最相さんが会場でピッチニーニに「これはすでに実験室の現実ではないのか」と訊ねると彼女は頷いたそうです。そして「自然の生態系から生まれた動物ではないからといって、彼らを私たちの生態系に入れないのかと問いたいのだ」言ったそうです。
「私たちには彼らを愛する義務があるのです」と。

「彼らをあなたの家族に迎え入れられますか」

良し、とも、悪しとも割り切れるものではない答えは、簡単に「私はこういう立場です」と言えないということを、言葉のうえの想像と気分の立場だけだと「ひとごと」、「壮語」、「自分のための都合」と変わらないということを受け止めないとはじまらないと言っているように思います。

(「受精卵は人か否か」内の最相葉月さんコラムより引かせていただいているところあります。)

「兆候・記憶・外傷」

精神科医の中井久夫さんの新しい本「徴候・記憶・外傷」を読んでいます。
彼の書く本、言葉はやわらかさと、静かな決意のようなものを持ち、人が生きていくなかではらんでしまう様々な様態へ「自分もそうなってしまったかもしれない」という立場で、同時に、治療者として、臨床的でありつづけようとする「宙吊られ感」(?)のような現場感に身を置く「倫理」のようなものを感じさせます。
それはきっと「即興」という環境(身体環境、関係環境)のことのように、私の、からだや意識に対しての関心や、こうありたいというあり方から読んでみると、読み替える(いえ、決して読み替えではないように思うのですが・・・)ことができるように思います。

この本はまだ半分も読んでいないのですが、統合失調症をはじめとしたさまざな形であらわれる障害が「こわれたもの」「くるったもの」「そちらがわの責任による恥ずべきもの」といったことではなく、「解体の危機をを賭けてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力」であったり、生体としての人間がある状況、きっかけでアンバランスであるときに生体側のその生命バランスをとりつつ生きるための働きや、あらわれてくる様態、生体主体の選ぶこと(うまく自分の言葉にできませんが)だというとらえかたに、自分は部外者、無知な者でありながら腑に落ちる感じを受けます。

なにを書こうとしたのかおかしくなってきましたが、要は、紹介したいのです(笑)。
みすず書房刊です。

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