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2004年06月

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「はこばれあたま」

6/30の「からだの作業場」ワーク。参加者は踊り手の御之道さんと、佐々木さん。あとは国江の三人でした。
そのなかからおもしろかったものをひとつ。

あたまというのは実はかなり重量があるものですが、普段はあまりそういう意識はしていません。それを少し感じてみようということで、「あたまをはこぶ、はこばれる」というのをやってみました。

二人組で、まず一人があたまを重さにゆだねるようなつもりで横に傾け、パートナーのほうがそれを支えます。支えられる側は自分のあたまの重さを相手に、重力にゆだねる、あずけるような感覚で。支える側の人は相手のあたまを掌で受けて、落ち着いたら相手のあたまを大事にはこぶように歩いてみます。支えられる側の人はその歩みに一緒について、はこばれていきます。
ただ歩くだけではなくて、ささえる側のひとはゆっくり軽くしゃがんでみたり向きをかえてみたり、ゆっくり空間のなかを相手をはこんであげる感じで。

最初は御之道さん「支え側」、国江「はこばれ側」で。「あんまり重くないよ」と御之道さんのコメント。「はこばれ側」のほうが力を抜いているつもりでも、うまく抜けていないというのがわかります。役割・パートナーチェンジで、佐々木さん「はこばれ側」、国江「支え側」で。佐々木さんのサジェスチョン、「頭部だけを支えてもらうより、首の上部(耳の下あたり)も支えてもらった方が力をゆるめやすいみたい」とのこと。やってみると確かにそのほうが抜きやすい。
見ているとかなり不思議な、でも、スムーズにいくと、とても穏やかな気配がながれる空気が生まれます。「注意の気配」が空間の空気を作り出して密度を流していく、というのがよくわかります。
「これ、振り付けにつかってもおもしろいかも」と、邪心(?)が生まれ、ブレーキ、ブレーキ。(笑)ここはそういうつもりの会じゃないと・・・。
「はこばれる側」は緊張しないようにするとなんとなく自然に目が閉じてしまう。その状態で空間をはこばれるのは不思議な、心地よさをともないます。

支える側、支えられる側共に、自分の状態をいろいろ感覚観察してみると、いろいろ気づく、みえてくるところあります。
支える側の肩、肘、腕のちからが抜けているか、とか、持ち上げるように支えているのか、掌で受け止めるように支え持っているのか、自分はどう持っているのか、変えてみたらどう変わるか・・・、といったようなこと。力を抜いたのは支え側なのに、その瞬間に相手のあたまがふっと、とても重く感じられたりします。
支えられる側も、たとえば頭と首の、支えてもらっている方の面(左傾きなら左、下面)だけでなく、上側も相手に、重さにゆだねる、あずけてしまう感じにしてみるとか・・・。触れられている、支えられている側の面はあずけようとしているけれど、逆サイド(?)は知らずキープしていたりということもあります。それを抜いて、そちら側「から」あずけようとしてみると、決して体重をかけようとしているわけではないのに、あたまだけではなくからだ全体があたまの導かれるほうに流れ落ちていくように連れられていくという感じになったりします。

あとから思ってみると、歩くのではなくて、位置を移動しないままで、すこし大胆にあたまを空間のなかを泳がせるように動かしあってみる、というのもあるかなと考えます。うまくいくと、おもしろい感じがうまれそうですね。

はこばれあたま1

「からだのまわりの小さい波のようなもの」

ひとのからだの様子を見るのが好きです、というとあれですが、別にじろじろ周囲の人を見ているわけではありません。
もちろん「看る」わけでもありません。

電車に乗っていたり、歩いていたり、いろいろな時に人のからだを観察して、その気配からなにか自分のからだに身体感覚のようなものを写し取るようにのせてみるのが好きだというのが正確なところかもしれません。

今までは具体的に「からだ」、「からだのあるところから受ける質感、気配」に目がいってしまうという感じだったのですが、最近少し変わってきました。

その身体(からだ)というもののなかでからだが個体としてあるだけではなくて、その人、からだから外側へ、ある何かへというエネルギー(というと大きそうなので、もうすこし軽い意味合いで「気」と言うくらいの方が合ってるニュアンスかもしれませんが)や注意の流れ、向きかたの気配まで含めて「からだのありよう」という感じで目にとまってくるようになりました。

決してなにかしようとしている様子でなくても何かが目に映ったりしているだけでも、注意、気はそこに少しは導かれている・・・。手すりに触れているだけの手でも、鞄をかかえているだけの手でも・・・。というようにいくつもの「流れ」がからだ、人とその居場所、他のひととのあいだに「Air」のようにながれているように感じられます。「からだ」だけ(?)ではなく「気」、からだの注意の向く、動く方向も「からだと共にあるもの」として映ってくるととても面白いです。

「Eureka」

青山真治という映画作家の作品に「EUREKA」(ユリイカ)という作品があります。劇場では観ていなくて(今思うとこれは多大なミスをおかしたような気がするのですが)DVDでみました。

映画もヴィターリ・カネフスキーの「動くな、死ね、甦れ」「一人で生きる」やラース・フォン・トリアーの「Dancer in the Dark」を観て以来の「自分の深い部分に何かがおりた」映画でした。

役所広司、宮崎あおい、宮崎将兄妹、斉藤陽一郎、光石研、尾野真千子、国生さゆり、利重剛、他出演。とても印象的な挿入歌(音楽)にアルバート・アイラーの「GHOST」とジム・オルークの「EUREKA」が入ってきます。
あるバスジャック事件の当事者となり三人だけが生き残り、生き残った乗客の二人の兄妹(宮崎あおい、宮崎将)と、運転手(役所広司)の存在の旅とでもいうような話、説明するとしたらそうなるのかもしれません。
その事件によって言葉を発することをできなくなった兄妹と、そのことに自分の闇のようななにかを突き続けられる男の間の話。もし分類するとしたらPTSDのような状態の兄妹と運転手が再会し、壊れ、生きなおしていく過程ということになるのかもしれません。

映画自身もとても引きつけられるものですが、監督自身が映画製作後にそれをもとに小説化したものがとても心を打ちます。
映画を観て、そして小説に触れ、また映画を観て・・・。原作でも台本でもないことばが映像だけではとどきづらいものをどんどん微分していき、波を流し込んで来ます。

ひとりでしかないこと、自分でしかないことと、だれかのためにあろうとすることと、隣にいれるのだということと・・・。

こう書いても「なんのことか・・・」という感じだと思いますが。

   ユリイカ(EUREKA)角川書店刊です。

「からだにのせてみる言葉」

からだにいろいろな言葉をのせてみます。朝の歩行中に思いつくことが多いです。
自分のからだを感覚的に観察してみて、どの辺が意識しないでブロックしてしまっているか、をとらえて、次にそこが開いた、抜けた、落ち着いた・・・・、状態の感覚を想像します。たとえばそのときのある筋肉の状態とか、骨の様子とか、感覚気配のようなもの。そして、その状態になるためのイメージ、言葉を思いめぐらします。そうするとうまくいくとふっと言葉、イメージがでてきて、それをからだにのせてみます。

「心臓に大丈夫」「皮膚は空気のがわのもの」なんていうのもそのひとつですが、ほかにもいろいろ生まれてきます。もちろんやってみたけどしっくりこなくて「だ~めじゃん」というのもあります。いいかもと思ってもすぐ忘れてしまうものもあります。

いくつか。(自分以外の人に面白いのかどうかわかりませんが)

 「一本一本の肋骨の間で輪切りにするように胸郭を分ける」
 「肋骨の中は水のとおる管になっている」
 「からだの内側が呼吸してるのではなく、呼吸の中に自分のからだが入ってる、包まれてる」
 「仙骨底に心臓をのせてみたら?」
 「口唇はあごを包む空気」
 「鎖骨を吹き渡る風」
 「体中でひとつの掌」
 「背中は自分をまもらなくてもいいんだよ」
 「からだの内側の筋肉や内臓をつかって、からだの内側を洗濯するように洗う」
 「空気をつかって皮膚を洗濯してみる」
 「地面まで自分のからだ」
 「自分の心臓に包まれる」
 
などなど・・・。感覚遊びでもあるけれど、意外な発見もあるかも・・・。

「心臓に大丈夫」

歩きながらが多いのだけれど、からだをふっと抜けていくもの、openにするための言葉、からだの感覚を変えてくれるとっかかりになりそうな言葉やイメージを見つけてからだにのせたりしています。

最近では「皮膚は空気側のもの」。皮膚はもちろん自分のからだのものなのだけれど、「自分のもの!!」のように無意識にとらえてしまっていると皮膚に力が入ってしまい、知らず固めて守るものになってしっまていることがあるような気がします。「皮膚は空気側のもの」って意識してみたらふっとそのへんが変わる。からだの風通しがよくなるような感じがします。

もうひとつは「心臓に話しかける」、「心臓に大丈夫だと話しかける」というもの。踊りの最中で集中しなきゃという時や日常のなかでも、知らず心臓を詰めてしまっている感じになっていたり、胸を詰めてしまっている感じになっていることに気づくときがあります。そんなとき「これは心臓かなあ・・・」と思っていたのですが、ふっと出てきたものは、心臓に「大丈夫」って話しかけることでした。ベタですね(笑)。自分でも「おいおい」という感じで驚きでしたが。でもたしかに気持ちがしずまったり、息がのびていったりするのですね。

「自分で自分のいることをみとめてあげる」というとなんか心理系自己啓発みたいですが、べつにそんなことではなくて実はきっと当たり前のことなんだろうし、自分の生きてる鼓動や息の波のうえに立ちなおす、寄り添い直すっていうことのように思います。

そんなことをしながら朝歩いたりしているのですが、今日読み終えた本のなかに「心臓コヒーレンシー」ということが出てきました。"心拍の可変性の一貫性"というような意味のようです。自分の「大丈夫」と、同じかなと思えるところもあって。詳しくは「フランス式うつストレス完全撃退法」という本(この訳名だとほとんど啓発ノウハウ本だけど、そうでもないです)、アーティストハウス刊を。

silent voices(2004.6.4)

ウェブログをはじめて半月以上になりますが、実はあまりいろんな人のブログを回ったりというのはしてません。もともとウェブ人間ではなかったし、ウェブの上で流通してしまってる言葉とからだのつながりかたを想像して、好きになれないものも多かったというのもあると思う。やはりからだの(というよりそのひとの)いる(生活している)ところから(そのひとの「ふつう」であるべきところから・・・うまく言えないな・・)うまれている、でもなげつけられたり投げ捨てられたりされてない、「立ち止まりながらのことば」というのに惹かれます。それは「そのひとは、そのひとのことをふりかえってそのひとのことをかいている」ことばっていってもいいのかもしれません。
sanaさんというかたがやっている「silent voices」というブログがあります。毎日見に行ってます。横の「my blog list」からリンクで飛べます。ぜひ一度足をはこんでみてください。

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