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「からだの作業場通信」移行中

いままでココログでやっておりましたが、このたびfc2に移行作業中です。
今は過去記事を少しづつ移しています。

その関係で、これまでいただいたコメント、リンク、トラックバック等は消えてしまっています。
ご了承ください。

Authentic Movement

authentic movementというものを最近友人達とやっています。
一番最初にそのことを知ったのはBody Mind Centering (BMC)というボディワークをやっている友人の吉田美和子さんとドイツ人のBMCワーカーのYansから。彼女はアメリカでそれを知ったとのこと。アメリカでBMCのワークを勉強してくる過程でいろいろ感じたこと・体験したことと自身のからだや自身というものをそのつど「統合」してくれる「なにか」であったというようなことを話していました。authentic movementというのはそのBMCというボディワークのうちのひとつ、というわけではかならずしもないようで、最近目にした本「新しい芸術療法の流れ クリエィティブ・アーツセラピー」(フィルムアート社)のなかではBMCというワークには触れられずに、「dance movement therapyのうちでよくつかわれるもの」というような紹介のされかたになっています。

どういうものかと簡単にいうと、二人組のパートナーになってひとりが目を閉じて動く(mover)。もうひとりはそれを見ている (witness)。そしてその後、お互いに感じたことを伝えあうというもの。でも、そのさいに伝えあうのは「そのとき自分がどう感じていたか」「自分になにが起きていたか」ということで、見ている側(witness)が伝えるのもmoverの動きや「いること」への見た側からの批評とか、評価ではない「見た側におこっていたこと」であるというのが「動きを批評しあう」というようなものとは大分異なったもののように感じられます。

「最初にmoverが初めに話して、大事だと感じていることをすべて話す。witnessはmoverが話し終わるまで沈黙のままで聞く。それから witnessはmoverとの自分の体験を共有する。witnessもまた自分が大事だと感じていることを話す。~witnessは自分自身の知覚と感情について話すのであって、moverの体験についてではないことを明確にしておく」(前書から)

moverが「動く」といっても、動かなければいけないわけでもないし、自分のなにかを「動きにしなければいけない」というのでもなくて、もちろん performanceとして見せてる動きをする必要もないもののようです。まず、目を閉じて自分を感じながらいるということ。ひとりで目をとじて動くのとも違う、見ているひとの存在が「容器」としての環境になろうとしてるはたらきのある場で起きてくる、「動き」と「自身」とを感じていること。そして witnessのほうは、そのとき、見て相手のことを聞き入ろうとしながら、その自分の体験を感じているということ。このような関わりが authentic movementのベースにあるようです。

自分で何度かやってみて、特にwitnessの時に感じること、見ているときの自分の状態はどう今いるんだろう、というのが面白いと思います。ダンスの公演や稽古をみているときは「からだ」をじっと追いつつも、どこかで判断・分析・批評を当然しながらみているわけで、そのことから離れて見るというのも揺れながらなのですが、その意識でみていると、「うごき」をみているのではなくて「からだ」そのもののいる感触を息を重ねるようにみているような感覚になります。また、ダンスを見ているときはからだと、うごきと空間と意識とすべて見ようとしてるような見方になっていると思うのだけれど、 authentic movementのwitnessのときはほとんど「からだ」というか「からだの時間」というようなものしかみていないようになっていくような感じがします。同じ場所で何組かのパートナーが同時にやっていても、どんどん自分のパートナーしかみていない(ダンスをみるときはそうではないので)ようなタイプの集中?のしかたになっていく・・・。前いちど奇数の人数しかいなくて時間節約のために「ためしに」ひとりで二人のmoverを見るということをやることになったことがあったけれど、「お話にならない」というか「無理」です(笑)、という感じでした。やはりそういうやりかたではあまりにもwitnessの見方でいることができなくて。
「見ている」ということのなかにいろいろな層があって、その質が見ているときの意識によってこうまで違うかと感じさせられたような体験でした。

わたしのからだをさがして

協同医書出版社刊の「わたしのからだをさがして」-リハビリテーションでみつけたこと-という本を読んでいます。片麻痺のクライエントのかたとリハビリの療法士のかたとのあいだのメールでの往復書簡です。

リハビリテーションというと、からだを動かして、物理的に機能回復を促すものだというイメージを漠然ともっていたのだけれど、ここで描かれている作業、やりとり、体験の過程はそのようなイメージとはだいぶ異なっていて、もっと、「自分のからだがいまそこでしていること」「自分のからだがいまそこでとっていること」、そして、「そのからだを自分はいま(そして、いままで・・・)どのように感じ取っていたり、イメージしているのか」ということを丁寧に発見しなおしながら、じぶんのからだ(と、じぶんのからだのとっていることに)に会いなおしていくという感じに近いような感じがしました。

ゆるんだ、力の抜けた身体は、一般的には「しっくりくる」「放たれた」イメージがあるように思われるけれど、でも、実際の体験、体感覚としては、固めていたりというときのほうが、「しっくり」きたり、落ち着いていたり、不安ではない実感があったりすることもあります。バランスがとれていないように見えることも、実はバランスがとれてあるように必要なものとして選びとられていたりすることもあるんだと思います。ここでのクライエントの小川さんの感じていることというのは、細かく振り返ると自分のからだのうえにもあることのように思います。ほとんど自分のことを書いてあるみたい・・・(もちろんちがうわけだけれど)という共感?で読んでいます。

実は、そのリハビリテーションの場での対話のやりとりではなくて、往復書簡であることが、とても深いものにしている気がします。体験したこと、感じたことを持ち帰って、感じ直したり考えたり。それぞれが自分と向き合ったり・・・。そこからもういちど言葉にして、自分の感じ直したことを伝える・・・。そのインターバルの時間のあいだに感じていることがとてもこの本に大事なものとして流れているような感じがします。

watasinokarada.jpg

「わたしのからだをさがして」-リハビリテーションでみつけたこと-小川奈々・中里留美子著
協同医書出版社刊

supportについて思うこと

yoga theraphy(といってもあやしい療法ではなくて、体をある「感覚的にぎりぎりに開かれるところ"edge"に人のサポートによってとどまってみてそこで起きることを感じる、というようなほとんどボディワークという感じだけれど)の講座で。
ふわっと触れられる方が「support」されていて預けられる感じがするか、しっかり強く持ってもらっているほうが「support」されているという感じがするかはその「受ける人」によってかなり違うみたいで、難しいところ。サポート側をやるときは「押さえられている」というふうに感じられるのではなく落ち着いてサポートされているという感じで受けてもらえるにはどうしたらいいか、というのを考えて試します。
そのなかでいくつか気付いたことを。
1)持続的な(ふらふらと変化しない)質で(ぶれない質で)触れていること(圧の質も)。結構難しく、知らずのうちに質がうろうろしていたりしてしまうけれど。
2)「重みでつながっている」感覚。体重をかける、とか力で押すというのではなくて。重みでつながってひとつのものになっているような感覚。同時に「押さえてパートナーのポーズをkeepしている」というような「つもり」から離れること。

「脚上げ」・「カポタ(鳩)」・・・e.t.c

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中井久夫さんの「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)
を読む。どのようなひとつひとつのこと(それはちょっとした言葉であったり、医療者のこころのなかでのつぶやきのようなことばかけであったり、患者さんとの挨拶だったりとか様々なことなのだけれど)が「治療的」にはたらくものなのか、中井さんのこれまでのなかで培ってきたことが書かれてあります。
実はボディワークもこういうことが大切で、「なにかをこうしてあげよう」とか「体験を与えてあげよう」いうのは思い違いなんじゃないかと思います。


おどろくべき病的体験、たとえば世界が粉々に分解するというようなまだだれも報告していない現象を話してくれる患者がいたとします。その彼が友達と映画を観に行ったり、ベースボールをしたり、喫茶店に行ったりしたことを、私は驚くべき病的体験の話よりも膝を乗り出して興味をもって聴けるか。-じつはそれは、医学部に入ってから何十年たった人間、医者の世界で生きてきた人間にはとてもむずかしことです。この点は、看護師の世界はそれほどではないかもしれない。あるいは、たいていの患者は看護師が健康な面に光を当てているからこそ治るのかもしれません。(本文より)

こんなとき私は

中井久夫「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)・・シリーズ・ケアをひらく叢書・・

Hands Onの中のspace-2-

もう一月以上前のことになるけれどクラニオセイクラルを友人に体験してもらう。というか、自分のためにクラニオの練習を、でもある。
そのときに感じたことを。

手のひらは狭いスペースだけれど、触れている手でその触れている範囲・部位の「うごき」として感じるのではなく、ふれている手のひらで相手全体を感じとっているような意識・イメージをもってみる。また、こちら側も「手で感じている」(手のひらという小さい窓口・検知器?をとおしてみている)というよりも相手に触れている手にこちらの全体がやわらかく入っている、というような意識・イメージもって感じてみる。

感じられるはずの「動き」を探しにいったり、聴きにいったりして意識がとがってしまうのでもなく、また、べたっと近すぎるのでもなくて「隣に共にいるだけ」に近いような感覚。とはいえ、ずっとそういう状態でいられるのはむずかしいのだけれど、感じられる質のようなものが変わってくるような気がする。

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井上亮「心理療法とシャーマニズム」(創元社)
絲山秋子「逃亡くそたわけ」(中央公論新社)
佐々木昭一郎「創るということ」(宝島社)
加藤幸子「家のロマンス」(新潮社)
梨木香歩「水辺にて」(筑摩書房)

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